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こども情報館(山科区ってこんなまち)

ページ番号96635

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2022年7月7日


山科区ってこんなまち

 

山科区(やましなく)のようす

 山科区(やましなく)は京都市(きょうとし)の東部(とうぶ)にあり、京の東の玄関口(げんかんぐち)としての役割(やくわり)を持(も)っています。また、三方を美(うつく)しい緑(みどり)の山に囲(かこ)まれた盆地(ぼんち)で、山々(やまやま)から流(なが)れ出た安祥寺川(あんしょうじがわ)、四ノ宮川(しのみやがわ)、音羽川(おとわがわ)などの川は、区(く)の中心部(ちゅうしんぶ)で山科川(やましながわ)に合流(ごうりゅう)しており、京都盆地(きょうとぼんち)と同じような形をしています。自然(しぜん)豊(ゆた)かな山から、川の流(なが)れに運(はこ)ばれてきた土砂(どしゃ)は、平野部(へいやぶ)で農作物(のうさくもつ)に適(てき)した土地を作っています。
 区(く)の面積(めんせき)は、28.78平方(へいほう)キロメートルで、京都市(きょうとし)の面積(めんせき)の3.48パーセントです。

 

山科区(やましなく)のれきし

なかとみ遺跡


 山科区(やましなく)の地域(ちいき)は、芝町遺跡(しばまちいせき)や中臣遺跡(なかとみいせき)から発掘(はっくつ)された土器(どき)、石器(せっき)などにより、縄文(じょうもん)・弥生時代(やよいじだい)から人々(ひとびと)が暮(く)らしていたことが分かっています。古くから奈良(なら)、大津(おおつ)、京都(きょうと)の中心部(ちゅうしんぶ)をつなぐ交通の重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)として栄(さか)え、近江大津宮(おうみおおつのみや)に都(みやこ)を移(うつ)された天智天皇(てんちてんのう)のお墓(はか)などがあります。
 平安時代(へいあんじだい)には山城国(やましろのくに)山科郷(やましなごう)と呼(よ)ばれ、明治(めいじ)22年(1889年)に山科村(やましなむら)となり、大正(たいしょう)15年(1926年)には宇治郡(うじぐん)山科町(やましなちょう)となりました。昭和(しょうわ)6年(1931年)に京都市(きょうとし)東山区(ひがしやまく)に入り、昭和(しょうわ)26年(1951年)に東山区役所(ひがしやまくやくしょ)山科支所(やましなししょ)ができました。そして昭和(しょうわ)51年(1976年)に東山区(ひがしやまく)から分かれ、現在(げんざい)の山科区(やましなく)が生まれました。

 

山科区(やましなく)のみどころ

 勧修寺(かじゅうじ)・隨心院(ずいしんいん)・毘沙門堂(びしゃもんどう)や、中世(ちゅうせい)の「宗教都市(しゅうきょうとし)」であった山科本願寺跡(やましなほんがんじあと)などのほか、「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」で有名(ゆうめい)な赤穂義士(あこうぎし)にまつわる多くの史跡(しせき)があります。毎年12月14日には、討(う)ち入りなどを再現(さいげん)する「山科義士(やましなぎし)まつり」が行われ、多くの区民(くみん)が参加(さんか)し、にぎわいます。
 また、明治初期(めいじしょき)に京都(きょうと)の近代化(きんだいか)を目指(めざ)して造(つく)られた琵琶湖疏水(びわこそすい)沿(ぞ)いをはじめ、桜(さくら)や紅葉(こうよう)の景色(けしき)が美(うつく)しい場所(ばしょ)が数多くあり、1年を通して豊(ゆた)かな自然(しぜん)に親しむことができます。

  • ずいしん院
  • 山科義士まつり
  • 琵琶湖疏水

 

山科区(やましなく)のじまん

山科なす


 清水焼(きよみずやき)、京扇子(きょうせんす)、京仏具(きょうぶつぐ)などの伝統産業(でんとうさんぎょう)や、金属箔(きんぞくはく)、金属粉(きんぞくふん)などの産業(さんぎょう)が発達(はったつ)しています。また農業(のうぎょう)では、「勧修寺(かんしゅうじ)のぶどう」や「山科(やましな)なす」などの特産物(とくさんぶつ)があります。
 近年では、地下鉄東西線(ちかてつとうざいせん)ができたり、山科駅前(やましなえきまえ)が再開発(さいかいはつ)されたことで、たいへん便利(べんり)になりました。京都高速道路(きょうとこうそくどうろ)(新十条通(しんじゅうじょうどおり))を作る工事(こうじ)も進(すす)み、都市(とし)として大きく発展(はってん)しつつあります。

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