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こども情報館(東山区ってこんなまち)

ページ番号96569

2023年8月28日


東山区ってこんなまち

東山区のようす

  東山区は、京都市の東寄りにあり、東山連峰(連峰=山々のつらなり)と鴨川にはさまれた地域です。そこに、東を向いたペンギンのような形で区域が広がっています。区の面積は約7.46平方キロメートル(甲子園球場の188個分の広さ)、京都市全体の面積の1.2パーセントで、区全体の半分近くが山林などの緑でおおわれ、川もあり、豊かな自然にめぐまれたところです。鴨川から東山連峰に向かってゆるやかにかたむいた土地に、南北に細長く市街地(=家やまちのいろんな施設が集まっているところ)が広がっているのが特徴です。

 江戸時代によまれた俳句に「ふとんきて 寝たる姿や 東山」(嵐雪作。松尾芭蕉という有名な俳人の弟子)があります。これは、東山連峰のなだらかな山の形がふとんをかぶってねているように見えることから、そうよまれたといわれています。

  • ペンギンと東山
  • 東山区上空

東山区のれきし

東山区は、昭和4年(1929年)に下京区から分かれてできました。(その後、昭和51年(1976年)に東山区の一部が山科区に分かれました)

 しかし、それよりはるか昔からこの地には人が住んでいました。4・5世紀には、古代朝鮮などからわたって来た「八坂造」と呼ばれる氏族が、法観寺というお寺づくりなどにたずさわっています。平安時代になると、後白河法皇の住まいである法住寺殿や平家一族の六波羅邸、さらには、平清盛の手になる蓮華王院(三十三間堂)が造られました。東山の斜面を利用し亡くなった人をほうむるところとしても重要な位置をしめるようになります。
 武士の時代になると、鎌倉幕府が六波羅探題(幕府が遠くはなれた京都を治めるために作りました)を置いたり、桃山時代に豊臣秀吉が方広寺や大仏を造ったりしたことにより地域が発展しました。戦乱の少なくなった江戸時代には、住宅地が開発されたり、江戸にも店を持つ柏屋という豪商(広く商売をする商人)が生まれ、地域の発展に力をつくしたり、名所を訪れる見物客を相手にした茶屋などの繁華街が作られるなど、今の町並みのもとに近い状態になっていきます。


 幕末(=江戸時代の末期)から明治の時代にかけては、日本最初のたばこ製造工場が造られ、その工場を始めた人がお客をもてなすために長楽館を造ったり、国が日本の宝物を守るために帝国京都博物館(今の国立京都博物館)を造ったり、鴨川沿いを走る京阪電鉄ができたりなど、この地域も日本の近代化とともに新しく動きはじめます。
 東山区の歴史を知ることは、日本の歴史を知ることにもつながるのです。

  • 東山かるた・わ
  • 東山かるた・た

東山区のみどころ

  思いきったことをするときに使われる「清水の舞台から飛び降りる」ということばの「清水の舞台」とは、東山区にある清水寺の高さ11メートルほどの舞台造りの本堂のことです。平安時代に建てられ、国宝で、平成6年(1994年)にはユネスコの世界文化遺産にも登録されています。

 また、唱える念仏が六体の仏像に形を変えて口から出ている空也上人像(鎌倉時代、重要文化財)のある六波羅蜜寺、ねねが夫・豊臣秀吉の死後の幸福をいのった高台寺も東山区内にあります。
 さらに、東福寺、泉涌寺、智積院、建仁寺、知恩院など、宗派をとりまとめる総本山といわれるお寺や、青蓮院、妙法院といった天皇家とゆかりの深い門跡寺院、祇園祭とかかわりの深い八坂神社や、それら寺社の門前の町並みなど、日本の社会や文化を知る上で欠かすことのできない名所やみどころがたくさんあり、観光客が京都市内で訪れる場所の、1から20位のうち、5か所が区内の名所です。

  • 東やかるた・き
  • 東山かるた・や

東山区のじまん

 古くから神社や社寺にお参りする人々や、江戸期に始まる全国からの見物客をむかえてきた東山区は、東山 山ろくに京焼・清水焼の窯元が広がり、ふもとの祇園は花街として発展しました。こうしたなかで育てられてきたのが東山の文化です。

 そして、東山区は市内11区のうちで人口のいちばん少ない行政区です。その一方で、いろいろなことを知っているお年寄りの割合は市内で最高です。東山の未来を考えることは、日本の未来を考えることかもしれませんね。

 

  • 東山かるた・ひ
  • 祇園町南側
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