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こども情報館(東山区ってこんなまち)

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2022年7月7日


東山区ってこんなまち

 

東山区(ひがしやまく)のようす

 東山区(ひがしやまく)は、京都市(きょうとし)の東寄(ひがしよ)りにあり、東山連峰(ひがしやまれんぽう)(連峰(れんぽう)=山々(やまやま)のつらなり)と鴨川(かもがわ)にはさまれた地域(ちいき)です。そこに、東を向(む)いたペンギンのような形で区域(くいき)が広がっています。区(く)の面積(めんせき)は約(やく)7.46平方(へいほう)キロメートル(甲子園球場(こうしえんきゅうじょう)の188個(こ)分の広さ)、京都市全体(きょうとしぜんたい)の面積(めんせき)の1.2パーセントで、区全体(くぜんたい)の半分近くが山林などの緑(みどり)でおおわれ、川もあり、豊(ゆた)かな自然(しぜん)にめぐまれたところです。鴨川(かもがわ)から東山連峰(ひがしやまれんぽう)に向(む)かってゆるやかにかたむいた土地に、南北に細長く市街地(しがいち)(=家やまちのいろんな施設(しせつ)が集(あつ)まっているところ)が広がっているのが特徴(とくちょう)です。
 江戸時代(えどじだい)によまれた俳句(はいく)に「ふとんきて 寝(ね)たる姿(すがた)や 東山」(嵐雪(らんせつ)作。松尾芭蕉(まつおばしょう)という有名(ゆうめい)な俳人(はいじん)の弟子)があります。これは、東山連峰(ひがしやまれんぽう)のなだらかな山の形がふとんをかぶってねているように見えることから、そうよまれたといわれています。

  • ペンギンと東山
  • 東山区上空

 

東山区(ひがしやまく)のれきし

 東山区(ひがしやまく)は、昭和(しょうわ)4年(1929年)に下京区(しもぎょうく)から分かれてできました。(その後、昭和(しょうわ)51年(1976年)に東山区(ひがしやまく)の一部(いちぶ)が山科区(やましなく)に分かれました)
 しかし、それよりはるか昔(むかし)からこの地には人が住(す)んでいました。4・5世紀(せいき)には、古代朝鮮(こだいちょうせん)などからわたって来た「八坂造(やさかのみやつこ)」と呼(よ)ばれる氏族(しぞく)が、法観寺(ほうかんじ)というお寺づくりなどにたずさわっています。平安時代(へいあんじだい)になると、後白河法皇(ごしらかわほうおう)の住(す)まいである法住寺殿(ほうじゅうじでん)や平家一族(へいけいちぞく)の六波羅邸(ろくはらてい)、さらには、平清盛(たいらのきよもり)の手になる蓮華王院(れんげおういん)(三十三間堂(さんじゅうさんげんどう))が造(つく)られました。東山の斜面(しゃめん)を利用(りよう)し亡(な)くなった人をほうむるところとしても重要(じゅうよう)な位置(いち)をしめるようになります。
 武士(ぶし)の時代(じだい)になると、鎌倉幕府(かまくらばくふ)が六波羅探題(ろくはらたんだい)(幕府(ばくふ)が遠くはなれた京都(きょうと)を治(おさ)めるために作りました)を置(お)いたり、桃山時代(ももやまじだい)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が方広寺(ほうこうじ)や大仏(だいぶつ)を造(つく)ったりしたことにより地域(ちいき)が発展(はってん)しました。戦乱(せんらん)の少なくなった江戸時代(えどじだい)には、住宅地(じゅうたくち)が開発(かいはつ)されたり、江戸(えど)にも店を持つ(もつ)柏屋(かしわや)という豪商(ごうしょう)(広く商売(しょうばい)をする商人(しょうにん))が生まれ、地域(ちいき)の発展(はってん)に力をつくしたり、名所(めいしょ)を訪(おとず)れる見物客(けんぶつきゃく)を相手(あいて)にした茶屋(ちゃや)などの繁華街(はんかがい)が作られるなど、今の町並(まちな)みのもとに近い状態(じょうたい)になっていきます。
 幕末(ばくまつ)(=江戸時代(えどじだい)の末期(まっき))から明治(めいじ)の時代(じだい)にかけては、日本最初(さいしょ)のたばこ製造工場(せいぞうこうじょう)が造(つく)られ、その工場を始(はじ)めた人がお客(きゃく)をもてなすために長楽館(ちょうらくかん)を造(つく)ったり、国が日本の宝物(ほうもつ)を守(まも)るために帝国京都博物館(ていこくきょうとはくぶつかん)(今の国立京都博物館(こくりつきょうとはくぶつかん))を造(つく)ったり、鴨川(かもがわ)沿(ぞ)いを走る京阪電鉄(けいはんでんてつ)ができたりなど、この地域(ちいき)も日本の近代化(きんだいか)とともに新しく動(うご)きはじめます。
 東山区(ひがしやまく)の歴史(れきし)を知ることは、日本の歴史(れきし)を知ることにもつながるのです。

  • 東山かるた・わ
  • 東山かるた・た

 

東山区(ひがしやまく)のみどころ

 思いきったことをするときに使(つか)われる「清水(きよみず)の舞台(ぶたい)から飛(と)び降(お)りる」ということばの「清水(きよみず)の舞台(ぶたい)」とは、東山区(ひがしやまく)にある清水寺(きよみずでら)の高さ11メートルほどの舞台造り(ぶたいづくり)の本堂(ほんどう)のことです。平安時代(へいあんじだい)に建(た)てられ、国宝(こくほう)で、平成(へいせい)6年(1994年)にはユネスコの世界文化遺産(せかいぶんかいさん)にも登録(とうろく)されています。
 また、唱(とな)える念仏(ねんぶつ)が6体の仏像(ぶつぞう)に形を変(か)えて口から出ている空也上人像(くうやしょうにんぞう)(鎌倉時代(かまくらじだい)、重要文化財(じゅうようぶんかざい))のある六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)、ねねが夫(おっと)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の死後(しご)の幸福(こうふく)をいのった高台寺(こうだいじ)も東山区内(ひがしやまくない)にあります。
 さらに、東福寺(とうふくじ)、泉涌寺(せんにゅうじ)、智積院(ちしゃくいん)、建仁寺(けんにんじ)、知恩院(ちおんいん)など、宗派(しゅうは)をとりまとめる総本山(そうほんざん)といわれるお寺や、青蓮院(しょうれんいん)、妙法院(みょうほういん)といった天皇家(てんのうけ)とゆかりの深(ふか)い門跡寺院(もんぜきじいん)、祇園祭(ぎおんまつり)とかかわりの深(ふか)い八坂神社(やさかじんじゃ)や、それら寺社の門前の町並(まちな)みなど、日本の社会や文化(ぶんか)を知る上で欠(か)かすことのできない名所(めいしょ)やみどころがたくさんあり、観光客(かんこうきゃく)が京都市内(きょうとしない)で訪(おとず)れる場所(ばしょ)の、1から20位(い)のうち、5か所が区内(くない)の名所(めいしょ)です。

  • 東やかるた・き
  • 東山かるた・や

 

東山区(ひがしやまく)のじまん

 古くから神社(じんじゃ)や社寺にお参(まい)りする人々(ひとびと)や、江戸期(えどき)に始(はじ)まる全国(ぜんこく)からの見物客(けんぶつきゃく)をむかえてきた東山区(ひがしやまく)は、東山山ろくに京焼(きょうやき)・清水焼(きよみずやき)の窯元(かまもと)が広がり、ふもとの祇園(ぎおん)は花街(はなまち)として発展(はってん)しました。こうしたなかで育(そだ)てられてきたのが東山の文化(ぶんか)です。
 そして、東山区(ひがしやまく)は市内11区(く)のうちで人口のいちばん少ない行政区(ぎょうせいく)です。その一方で、いろいろなことを知っているお年寄(としよ)りの割合(わりあい)は市内で最高(さいこう)です。また、女性(じょせい)100人に対(たい)する男性(だんせい)の数(人口性比(じんこうせいひ)といいます)は、全国(ぜんこく)の市町村の中で最(もっと)も少ないという特徴(とくちょう)があります。(平成(へいせい)17年 国勢調査結果(こくせいちょうさけっか)より)
 東山の未来(みらい)を考えることは、日本の未来(みらい)を考えることかもしれませんね。

 

  • 東山かるた・ひ
  • 祇園町南側
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