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京都創生フォーラム

ページ番号75216

2013年9月24日

京都創生推進フォーラム

~世界における京都 京都に見る日本的感性~

 

会場:祇園甲部歌舞練場
主催:「国家戦略としての京都創生推進フォーラム」実行委員会
(社団法人)京都経済同友会/(社団法人) 京都市観光協会/(財団法人)京都市芸術文化協会/京都商工会議所/ (株式会社) 京都新聞社/京都創生百人委員会/(財団法人)大学コンソーシアム京都/(社団法人) 日本建築学会/京都市
司会:(財団法人)京都市芸術文化協会評議員 松尾恵

 

●司会 
 皆様、大変お待たせいたしました。ただ今より、国家戦略としての京都創生推進フォーラム実行委員会主催による「京都創生推進フォーラム 世界における京都~京都に見る日本的感性」を開催いたします。
 私は、本日の司会を務めます(財団法人)京都市芸術文化協会評議員の松尾恵と申します。私は京都市立芸術大学を卒業しましたのち、現代美術を中心とするギャラリーを開きました。それと並行いたしまして「芸術祭典・京」事務局などの京都市の芸術振興事業に関わってまいりました。現在は、京都造形芸術大学で非常勤講師も務めております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
 では、初めに桝本賴兼京都市長から、皆様方にご挨拶を申し上げます。
 桝本市長、よろしくお願いいたします。(拍手)

開会挨拶 京都市長 桝本賴兼

開会挨拶 京都市長 桝本賴兼

 

 皆様、本日は本当にありがとうございます。京都創生推進フォーラムの開会に当たりまして、一言ご挨拶を申し上げます。
 本日は、ご多忙中にも関わりませず、京都の文化を象徴する地の一つ、ここ祇園甲部歌舞練場で開催いたしましたフォーラムに本当に多くの皆様方のご参加を頂き、誠にありがとうございます。心から御礼申し上げます。
 1200年の悠久の歴史と文化が息づく山紫水明の地京都は、日本の財産であり、世界の宝であります。この京都を日本の財産として守り、創生し、未来へ、世界へ発信するためには、京都人の努力はもとより、国をあげての取り組みが必要でございます。本日のフォーラムは、「国家戦略としての京都創生」の実現に向け、地元京都での機運を多いに盛り上げるため、京都の文化、観光、景観、経済団体など、様々な分野に亘る方々からなる実行委員会により開催するものでございます。
 まず、哲学者で文化勲章受章の、梅原猛先生からのメッセージを頂戴し、近代美術研究の第一人者である高階秀爾先生の基調講演、そして須田寛様、三村浩史様、黛まどか様、村田純一様といった各界を代表するパネリストの皆様から、貴重なお話をお伺いする予定でございます。ご参加頂きました皆様、お一人お一人に、京都創生の意義、我々にできることは何かについてお考えいただければ、誠にありがたいと存じております。
振り返りますと、梅原猛先生から国家戦略としての京都創生の提言を拝受いたしましたのは、平成15年6月のことでございました。私は、この提言の中に凝縮された京都人としての、また日本人としての使命を重く、強く受け止め、その実現に全力を傾けてまいりました。ご提言を頂いてただちに「歴史都市再生法」の制定など、数々の具体的な提案を国に対して行うと同時に、国家戦略としての京都創生の必要性について、広く関係者の皆様のご理解を得る取組を重ねてまいりました。その結果、景観についての我国で初めての総合的な法律であります景観法が、平成16年6月に制定されるなど、大きな前進をみております。
 しかしながら、皆さんもご承知のとおり、京町家はこの7年間で13パーセントも減っております。2万8,000軒ある京町家が、毎年500から1,000軒ずつ減っている。大変な状態になっております。電線類の地中化も、京都の財政力では、今のペースでは100年たっても完了いたさないわけであります。また、財政措置の拡大等の、文化財の保護と活用のための国を上げての総合的な対策も図られておりません。抜本的な、基本的な法律により、制度的・財政的な措置を講じなければ、京都が京都で無くなってしまうという危機的な状況にございます。景観法は、その第一歩であるわけであります。
今こそ、私たちの愛するまち京都の財産、京都の創生に本腰を入れなければなりません。そこで、国における政策の検討や市民の皆様をはじめ、全国の京都を愛する人びとに幅広いご論議を頂く端緒となるよう、歴史都市・京都創生策(案)を取りまとめた次第でございます。
 本日、皆様方のお手許にリーフレットをお配りしておりますが、日本人全体にとっての京都の存在意義、守り伝えなければならない理由、その方策について、私共の考えを記しております。京都創生は平坦な道程ではございません。それを乗り切って日本の財産、世界の宝である京都を守り伝えていくことは、非常に今求められていることであるというように認識し、本日のフォーラムにご参加の皆様と熱い思いを共有し、京都を巡る危機に立ち向かう強い絆を築いていかなければなりません。
 本日、地元京都で開催するフォーラムが、こうした全国的な機運の盛り上がりのきっかけとなることを祈念し、私自身、粉骨砕身、京都創生に全力を傾注してまいる決意を表明いたしまして、少々長くなりましたが、私のご挨拶とさせて頂きます。
 本日は、本当にお忙しいところ、ようこそお越し頂きました。これからもどうぞ、いろんな意味でご理解とご協力、ご指導を賜りたいと思います。ありがとうございます。(拍手)

●司会
 桝本市長、ありがとうございました。
 それでは引き続きまして、哲学者で国際日本文化研究センター顧問の梅原猛様からメッセージをお願いいたします。
梅原先生は、昨年、京都創生懇談会の座長として、国家戦略としての京都創生の提言をとりまとめられ、更に提言の実現を目指して、各界の著名人で構成する京都創生百人委員会世話人代表として精力的に京都創生の取り組みを進めて頂いております
 それでは梅原先生、お願いいたします。

 

メッセージ 梅原 猛(哲学者、国際日本文化研究センター顧問)

メッセージ 梅原 猛(哲学者、国際日本文化研究センター顧問)

 

 昨年、桝本市長から、京都は素晴らしい文化はあるけれど、京都だけで守りきれないと、そして、国家戦略として京都を守る、そういう委員会をこしらえたいがどうだろうという相談を受けまして、「それは大変結構である、それは私も前から考えていたことです」という形で委員会が設けられまして、京都造形芸術大学学長の芳賀さんを中心に提言をまとめたわけでございます。
 私は京都生まれではないですが、1945年、終戦の年に京大に入りまして、以後60年、京都に住んでいます。長い間京都に住んで、私の学問が生まれた恩返しと思いまして、「京都発見」というエッセイを読売新聞および京都新聞に5年間連載したのでございます。
それで感じたことは、京都には、本当に名も知れぬお寺に日本の歴史の秘密を解く、そういうものが隠れている。京都は恐ろしい都だということを痛感せざるを得なかったわけでございます。本は来年で完結しますが、全9巻の『京都発見』で、京都にあるまだ探られていない魅力を探求したつもりですが、まだ、京都の魅力は語り尽くせないという、素晴らしいまちでございます。
 千年の間、都があったのは京都だけ。世界にもないんです。そして、日本は木造建築ですから、建築は必ずしも残っていませんけれど、その歴史はどこかに残っている。こういう世界にも希な、ただ一つの都市を守っていかなくちゃならない。
 この頃、京都特集をやれば雑誌も売れる、テレビも視聴率が上がると。推理小説も京都が舞台になりまして、山村美紗さんの小説を読むと、京の有名な寺でだいたいの殺人が起こっている。この人気のあるまちが、今市長から話がありましたように、本当に町並みが変わってきている。私は、西陣に住んだことがありますが、この間行ってみると、本当に西陣は変わった。あそこはいいまちだったんですけどね。今はすっかり、昔の趣がなくなっております。
 日本はこれから、伝統とは何かということを、日本国家はしっかり考えなくちゃならない。京都とは何か、そういうことを考えることが日本とは何かを考えることなんです。ますます京都が必要になってくる時代が、私は来ると思います。京都がこういう運動を進めていくことは、京都の利益のためではなくて、日本の利益のためだ、世界の利益のためであると思います。
 今日のシンポジウムのメンバーが素晴らしいですね。コーディネーターを務めるのは、長年の友人の高階秀爾さん。高階さんは昔からよく知っていますが、大秀才の大が三つぐらいつく。東大の大秀才。京大から出るのは、だいたい奇才です。あるいは、奇才ではなくて怪才。京都造形芸術大学の大学院の院長をしている。京都の魅力がいかに深いかということだと思います。
その大秀才の高階さんがコーディネートされまして、京都商工会議所の会頭の村田さん。村田さんは経済人でありますが、大変な文化人。音楽が大好きな文化人です。本当にそういう教養人ですね。
 それから須田さんは、須田国太郎という画家で学者で、京都市立芸術大学の学長をしていたという私の先輩にもあたるその息子さんで、JR東海の相談役をされた。実業家ですが、お父さんの血を受けておられますから、やっぱり大変な文化人だと思います。
 それに三村先生という、町家についての研究者としての第一人者。
 黛まどかさんは、美人の俳人でありますが、大変な活動をしておられる。素晴らしいメンバーでシンポジウムを聞くことができまして、私としては大変うれしいです。今日は、素晴らしいお話が聞けると思います。
 それでは、どうも本当にたくさん集まっていただいて、ありがとうございました。(拍手)

●司会
 梅原先生、ありがとうございました。
 桝本市長からは京都創生に対する力強い決意を、また梅原先生からは京都創生の必要性を述べて頂きました。京都創生百人委員会の皆様には、今後とも実行委員会とも協力して、京都創生の実現にむけて取り組んで頂きますよう、お願いいたします。
 それではここで、梅原先生、桝本京都市長にはご退席頂き、基調講演に移りたいと存じます。梅原先生、桝本市長、ありがとうございました。(拍手)

 それでは、基調講演「世界における京都~京都に見る日本的感性」に入らせて頂きます。
 講師は、先ほど梅原先生からもご紹介がございましたように、京都造形芸術大学大学院長の高階秀爾様でございます。高階先生は、東京大学教授、国立西洋美術館長などを歴任され、現在、京都造形芸術大学大学院長、更には大原美術館長、パリ第一大学名誉博士をも務められております。
 では、高階先生、よろしくお願いいたします。(拍手)

 

基調講演 高階秀爾(京都造形芸術大学大学院長、同比較藝術学研究センター所長)

基調講演 高階秀爾(京都造形芸術大学大学院長、同比較藝術学研究センター所長)

 

 ただ今ご紹介頂きました高階でございます。
本日は、この後4人の先生方と一緒に開きますフォーラムに先立ちまして、「世界における京都~京都に見る日本的感性」ということでお話ししたいと思います。
 私は実は、元々が東京でございまして、現在は色々京都にお世話になっておりますが、いわば外から来て、来るたびに色々京都の良さを感じているところでございます。先ほど梅原先生から色々とお話がございました。私、梅原先生のご本は、『京都発見』をはじめとして、いつも大変教えられところが多い。おっしゃることは、すべて、「なるほど」と思うんですが、先ほどのお話のうち,私のことだけはまるで違っていると思います。
 外からまいりまして、京都にまいりますと、やはり非常に長い、1200年の伝統を残したまちだということが身にしみて実感されます。先ほどの桝本市長のお話でも、京都は色々変わってきたというふうなお話がございました。そういうこともあろうかと思います。しかし、私がやってまいりますと、今勤めております京都造形芸術大学、東の方にございます東山を眺めて、そしてこの町並み、昔ながらの町並みを見て、ここには歴史が生きているなという気がいたします。
 ご承知のように、京都は平安京以来の町並み、基本的な形を残しております。この碁盤縞の北に内裏があって、真ん中に朱雀大路があって、東西、左京・右京に分かれているこの形。これは、現在にまで、基本的な骨組みとして続いている。これは大変大きなことだろうと思うのですが、ご承知のように、この都市計画というのは、元々は中国大陸からきたものですね。これは平安京にかぎらず、平城京もそうですが、かつては、日本は中国文明から多くのものを受け入れました。そして、その一つとして、中国の都市、長安の都に倣った碁盤縞の中国都城制によるまちを、平安京を造ったわけです。
 その意味で、この京都のまちも、元を探れば大陸に根があるということになります。きわめて正確に長安のまちを写した。真ん中に朱雀大路があって、南に羅城門があって、そして左右にきちんと分けてという形はそのままでありますが、一つだけ中国とは違った点があります。つまり、受け入れられなかった面があるんですね。それは何かと申しますと、中国のまち、都市は必ず城壁で囲まれております。城郭都市ですね。とても人が登れないような高い城壁で囲まれて門があるというのが中国本来の都市であります。
 これは中国に限らず、西洋の都市もそうですね。パリにしても、ウィーンにしても、ロンドンにしても、元々は城壁で囲まれておりました。パリは今ではもちろん、広々としていますが、19世紀中頃まで、150年ぐらい前までは、城壁がずっと囲んでいたわけです。ウィーンもそうでした。それがつい150年ぐらい前に取り壊したわけですから、壁で囲む、つまり、外から区別するというのが、まちの本来のあり方なんですね。
 中国の場合ですと、国そのものも、北の方から敵がやってくるというので、壁──万里の長城というのを築きました。そういう形で閉ざしてしまう。ところが、その都城制を取り入れた日本の平安京、これがまちの区画等はそのままでありながら、城壁は入れなかった。これは平城京もそうですね。簡単な囲い程度です。したがって、その気になれば、かりに攻めてきた場合に、簡単に入れるような形をとりました。
 日本には、そういう意味では城壁で囲まれた城郭都市というのがないんですね。これは、元々は防備の意味がありますから、軍事都市は本来、そうなっているというのは西洋でも中国でも同様であります。ところが日本の軍事都市、たとえば江戸時代の城下町、これはお城がありますから当然、お城を中心にしたまちです。しかし、代表的な江戸──徳川幕府のお城があって軍事都市である江戸にしても、城壁で囲まれてはおりません。
 そういう点では、都市のあり方をみると、日本は西欧や中国と比べてかなり特殊なものがあるというふうに思われます。たとえば城壁があって,門がある。──これは西洋でも、中国でも同じです。門を閉ざせば入れない。それに鍵をかけてしまえば敵が侵入してこない。逆に言えば、そこを開ければ敵が入ってくるというので、非常に大事なことになります。
 皆様ご承知のロダンの『カレーの市民』という彫刻がございます。あれは、フランスとイギリスが戦争した百年戦争の時に、カレーのまちがイギリス軍に囲まれて、もうどうしようもなくなった。このままでは滅びるしかないという時でも、ともかく城門があって、城壁があるから敵は入ってこない。しかしもう、まちの中に長いこと籠城して食糧もない。このままではどうしようもないというので、そのまちの長老たちが、イギリス軍に「もう降伏します」という降伏の使者として行った。その代わり、まちの人は救ってくださいということで、そのまちは助かったというエピソードがございます。それに基づいてカレー市が、ロダンに頼んであのモニュメントを作ってもらったのです。
 ご覧頂きますと、その中の一人、立っている長老は、手に大きな鍵を持っています。これが城門の鍵なんですね。この鍵を相手に渡すと、「もう、私共は門を開きます」という負けた印です。
 日本の場合には、羅城門がありますが、鍵で閉めることはない。鍵がないんです。これは建物の場合もそうでありまして、西洋の建物ですと、もちろん壁で囲まれて鍵がある。中に入ると、部屋が全部区別されていて、部屋ごとに鍵がある。日本の場合ですと、本来はそうではなくて、間は建具だけという構造になっています。それでは、たとえば平安京を作る時、それで大丈夫だったのか、どうしてそうしたのか。
 この都が造られましたのが1200年前、794年でございます。延暦13年。『日本紀略』というのに、この時の桓武天皇の詔が出ております。つまり、平安京に移るための詔ですね。そこにこうあります。「この国」──というのは山城の国です。「この国山河襟帯し、自然と城をなす。その形勢によりて新号を制すべし」と。山河──山と川が繋がっていて、自然と城をなす。人間が壁を造るのではなくて、山と川が一つになって、自然と一つになって、城をなしているというのが、この主旨であります。つまり、自然に向かって開かれていて、逆に言えば自然が周りにあって、そこでその中に都があったわけですね。このことは、日本人が城壁でもって、外の自然と区別したまちを作るのではなくて、周囲の自然と一つになってまちづくりをしてきたということを示します。
 これは平城京の場合も同様でありまして、平城京は和銅6年、713年の詔がございます。「平城の地は四禽の図に叶い」、四禽というのは、例の青龍、朱雀、白虎、玄武でありますが、「三山鎮をなす」大和三山、山が鎮をなすということで、山があるから都がきちんと鎮まっているということです。こういう自然に対する目、あるいは思い、これはその後もずっと続いている。それはまた、日本人全体の感性というものに深く繋がっているだろうと思います。
 自然というとこの京都創生フォーラムの方々が色々ご相談になった京都の魅力を探る中でもそのお話が出たようです。
 自然の移り変わりというものと生活を一つにして、1200年ずっと人びとは生活してきました。日本人の持っている感性のもっとも代表的なものの一つ、皆様よくご承知の日本人の大変鋭敏な感覚を示す文献として、例の清少納言の『枕草子』がございます。あの冒頭はまさに、優れたものを並べます。これが、春、夏、秋、冬ですね。「春はあけぼの」というので始まります。
 「やうやう白くなりゆく山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」。春はあけぼのがいいんだと。「夏は夜、月のころはさらなり、闇もなほ」と。夏は夜がよくて、月があればいいし、闇でもまたいい」という形。「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて」つとめてというのは朝早くです。そういう四季おりおりの変化。そして、それが一日のうちの変化、あけぼのとか夕暮れとかというものと一つなって、それが素晴らしいということを鋭敏な感覚の清少納言が言っております。
 しかも、この言葉、今の我々にも通じるんですね。つまり、千年前に書かれた言葉が、春はあけぼの、夏は夜、秋は夕暮れ──もう小学生でもわかる言葉であります。こういうものがずっと繋がっている伝統というものは、大変に大きな意味を持っていると思います。もちろん西洋でも、たとえばフランスでもイギリスでも古くからの伝統、あるいは文章、エッセイ、詩というのがあります。しかし、日本ほど古くからの言葉がそのまま繋がっているというのは、少なくとも西洋世界を見ても例はございません。
 『枕草子』だけではありません。この同じころに『古今和歌集』というのができました。『古今和歌集』の中にある歌も、我々のよく知っているもので、まったくごく自然によくわかる歌がいくらもあるわけですね。「みわたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」、素性法師の歌ですが、これは我々が普段使っている、今でも使っている言葉です。見渡すというのは使っていますし、柳、桜はもちろんですし、こきまぜる──しょっちゅう混ぜたりすることはやっています。都は春の錦だと。文語調ではありますが、自然にわかる言葉で歌われております。
 これはですね、たとえば千年前の英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語圏を比べてみますと、古くは中世英語とか中世フランス語というのがあるのですが、今の言葉とはまるで違います。繋がってはいますが、とても注釈なしには読めない。普通の人にはとても読めなくて、学者の方が色々現代語に直したりしているんです。
 しかし、日本の場合にはその歌が平安時代どころか、万葉の歌もそうです。あるいは、『古事記』に出ている「八雲たつ出雲も八重垣つまごみに……」というのからずっと続いているわけです。形式も31文字というのが現在にまで繋がっている。そして、それが、その時その時に優れた歌、藝術を生み出しております。それが、現在の人が読んでもわかるというのは、考えてみれば大変なことだと思います。伝統というものだろうと思います。
 中には難しい歌もありますが、「春の苑くれないにおう桃の花下照る道に出で立つおとめ」。春の園のくれないにおう桃の花の道に乙女の姿が見える」。これも注釈も何もいらないような歌です。これは『万葉集』です。これは千年どころか、もっと前ですね。そういう歌が続いていることは、伝統というものの力を強く感じさせます。そのような歌、これはすべて大和言葉で書かれていますね。「春の苑くれないにおう桃の花……」も、あるいは「みわたせば柳桜をこきまぜて……」もみなそうです。
 この伝統は、近代の詩人たちにも続いておりまして、これは私、大変おもしろい現象だと思うのですが、近代の詩人たち、もちろん明治以降、西洋の影響や何かがあって、大変に難しい言葉、外来語を使った詩も数多く歌われております。しかし、たとえば本当に心の初々しい、弾みを歌いあげようという時には、どうも日本人は、そういう大和言葉、千年を越える伝統のところに帰っていく。春の苑の紅匂う桃の花の下に出で立つ乙女というような非常に初々しい風景、情景、そしてその乙女に寄せる思い、そういうようなことを思いますと、伝統に帰っていくのであります。
たとえば、歌謡曲で有名になりました島崎藤村の「まだあげそめし前髪の……」、これは詩であります。島崎藤村という人は、明治の30年代に、「ついに新しい詩歌の時はきたりぬ」、「これまでとは違った詩歌の世界を切り開くんだ」ということを言った人です。たしかに、そうなんです。しかし、その藤村ですら、初々しい恋心を「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えし時前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり」と歌っている。これはすべて大和言葉です。漢語が入ってくる前の万葉時代に使われていた言葉ですね。
 もちろん、日本には漢語、漢字が入ってきました。しかし同時に、これが日本の文化的感性、それは京都に凝縮されている感性の大きな特色だと思いますが、色々なものを入れながら古くからのものもきちんと残しておく。これは詩歌の世界で大変よくわかります。先ほどの、清少納言はもちろん大和言葉で書いているわけです。その言葉はずっと近代まで続いておりまして、その間、色々と、当時で言えば外国のものが入ってきますが、そうすると、それはそれでまた新しい文学を生み出します。漢語というものが入ってきて──これは仏教なんかを通じて、そうすると日本語というのは音読みと訓読みがあります。漢語はもちろん漢文です。「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」これはもう漢語ですよね。仏教の言葉、諸行無常とか祇園精舎という言葉が入ってくる。それはそのまま取り入れながら、しかし、本当に自分の初々しいような心を歌う時は、自然に長い伝統の言葉に帰る。
 私は古い世代ですが、昔のナツメロのいわゆる演歌調のもの、最近の歌ではポップスなんかはカタカナが入ったりなんかしてずいぶん新しいものが次々と出ています。それでいて、ナツメロということになるとどうでしょう、「酒は涙かため息か、こころのうさの捨てどころ」これも全部昔からあった言葉です。酒も涙もため息も。という形で、そこで我々に何か訴えるものがある。酒は涙かなんていうと大変古い世代と思われますが、事実、私は古いんですが、それはずっと今まで続いている、そしてしかも、それは優れた歌手だけではなくて、庶民の間にも拡がっています。まさにナツメロがそうであるようにですね。そのことは、大変重要なことではないかと思います。
 皆様がよくご承知の歌では、例の『祇園小唄』。これは、「月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ……」。祇園というのだけは名前、固有名詞ですから──祇園精舎の祇園からきている。音読みになっています。後は、すべて訓読み、つまり大和言葉です。清少納言や山上憶良が使っていた言葉で歌われて、それは私も色々口ずさみますし、今の人びとにごく自然に受け入れられる。「夏は河原の夕涼み 白い襟あしぼんぼりに」もう言うまでもございません。すべて日本の昔からある言葉でできているのですね。
 そういう伝統が一つ、日本の歌論、あるいは藝術論がありますが、清少納言と同じころに『古今和歌集』というのができまして、その冒頭に紀貫之が、「大和歌は人の心を種として万(よろず)の言の葉とぞ成れりける」ということを言いました。人の心、心にうつものをまず種として、それが歌になり、言葉になる。人の心に訴えるものというのが、その言葉の中に潜んでいて、それはずっと千年を越えて今の我々にも訴えてくるんですね。そのような力、それを守り育ててきた、自然に受け継いできたというところに、私は伝統の強みを感じます。
 ヨーロッパにも、もちろん優れた詩(うた)はありますけれども、今の英語に近いもの、たとえば『カンタベリー物語』とか、イタリアだとダンテの『神曲』みたいなもの、これがだいたい600年から700年ぐらい前ですね。千年前の言葉は、とても今には繋がっていない。
 しかし、日本の場合にはそれが自然に繋がって、なおかつ、次々と新しいものを入れております。それはリズムもそのまま受け継がれておりますし、言葉も昔のままで、しかもちっとも古さを感じさせないで、我々に訴えてきます。そして、その歌というものが人の心に通じる、心を結び合わせるものですね。
 貫行も『古今集』の序文で、「大和歌 人の心を種として」に続けてですね、「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」、これはもう自然と繋がるんですね。「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、たけき武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり」。これは和やかな、歌の持っている功徳と言いましょうか、力というものを言っています。男女の仲をも和らげ、たけき武人の心をも慰むるは、歌なり」。これはやはり、日本の感性の一つであります。そういう伝統的なもの、これはけっして色々な人を対立させるものではなくて、結びつけるものなのですね。そういう形で、日本人の間に「和」の思想──梅原先生はよくおっしゃいます「和の思想」というのは、非常に早くから言葉をとおして、感覚的に捉えられていたということができると思います。
 しかも、それだけではない。というのは、私、美術の方をやっておりまして、美術のことなんかの歴史を見ていますと、よく実感されます。和歌というのがずうっと31語でありながら、ある時期になって、それを更に短く凝縮して俳句──まあ、連歌から俳句というものが生まれてきます。今日、後でこれから黛さんのお話もあるんだと思いますが、たとえば「逢へぬ日を重ねて古都の月あかし」、これは黛さんの「京都の恋」という中の一句ですが、ここでも自然が出てまいります。古都という言葉ですね、古い都。これは単に時代が古いだけではなくて、詩の中で、俳句の中で、我々に何か訴えてくるものをやはり持っています。今言った『万葉』からずっと繋がっている古の、古いものというものが一方であります。同時に、そこに都というイメージがあります。古いものを入れながら、そこに新しいものがどんどん入ってきている。そして、新しいものが生まれてくるというのが都なんですね。
 日本の美術を見ますと、まさにその平安時代、大和絵というのが成立しまして、これは、『源氏物語絵巻』とか、大変優れたものがあるのはご承知のとおりであります。大和絵という言葉は、大和の絵ですから日本の絵ということです。中国から来たものは、当時は唐絵(からえ)と言いました。これに対して日本でつくられた絵ということです。中国の人もそれを見て、日本は大変装飾的だとか、金碧をよく用いるというような批評をしていて、違ったものなんですね。中国から来たものは唐絵、日本のものは大和絵というように呼んでおりました。
 ところがその後、鎌倉期以降、ご承知のように新しく中国から僧を通じて水墨画が入ってまいります。雪舟なんかがそれを受け継いでいくわけですが、これは非常に厳しい、骨格の厳しいもので、当時の人はこれを漢画と呼びました。中国から来たということで漢画と呼んだ。それに対して、日本にあったものは、和画と呼んだ。和漢の和です。その和画の中には、かつての大和絵も唐絵も含めてしまった。漢画が入ってきたから、じゃあそれまで日本にあったものは和画ということになったのです。
 ところが、雪舟にしても、室町時代の水墨の様々な世界を、今では我々は日本のものだと思っていますけどね、それはもう既に200年以上も前からそうで、明治になってあらためて、今度は西洋のものが入ってきます。西洋の油絵が入ってくる。そうすると、これは西洋画と呼ぶ。油絵を含めて、洋画という言葉がでます。それに対して日本画という言い方が出てきた。今でも京都は日本画が大変に盛んで、日本全国に多くの日本画の方がおられます。伝統的に京都はその中心の一つでありますが、日本画といった時には、雪舟も何も全部含んでいるわけです。つまり、それ以前のもの、かつての大和絵はもちろんですが、漢画であり、狩野派であれ、すべてを日本画といった。つまり、古いものに新しいものが加わってくると、いつのまにか同化しているわけですね。日本の歴史というのは、そのようにして、だんだんに色々なものを積み重ねながら続けてきて、古いものが消えないのです。
 西洋の美術史をみますと、これは様式が変わる、交替する歴史だと言います。ロマネスクというような様式が中世にあります。その次にゴシック様式が出てくる。それからルネッサンスが出てくる。次々と変わっていくんですね。変わっていくということは、ゴシックが出てきた時には、ロマネスクはもうないわけです。ルネッサンスになると、もうゴシック式のものはなくなる。ですから、たとえば建物で現代、これは新しい現代のものが当然、出てきます。そこでは、ロマネスク──今になってロマネスクの建物を建てようという人は誰もいない。
 ところが、日本では、現代数寄屋というのがあります。数寄屋造りは、遡れば16世紀にその名前が出たそうです。更に遡れば、木造建築、和様建築と呼ばれるものに遡ります。そして、現代の新しい建築を作ると同時に、古いものも新しく生かしていくという伝統があって、日本の場合に様式交替というだけでは割り切れない部分があるんですね。そういう広いものを入れながら、それを同化していく力。これは大変に大きな意味を持っているだろうというふうに思います。
 これを美術以外で見ても、日本人の持っている感性は、そういうものであろうというふうに思います。それが中国のものを受け入れ、西洋のものを入れて、もちろんその度に大きな衝撃を受けます。衝撃を受けながら、いつの間にかそれを取り入れる。しかも、古いものを残していく。先ほどの市長のお話で町家がずいぶん無くなって来たというお話ですが、なおかつ、私ども外から見ますと、京都のまちというのは、町並みにしても、町家にしても、色々なところに行くと残っております。そして、日本の建物というのは、これも都市と同じで、開かれておりますから、建具やなんかで塞がれているけれども、必ず坪庭があり、奥庭がありですね、随所に庭があります。
 建物、住まいと庭、自然とは、当然繋がっております。それは実際上の理由も色々あるんだと思いますが、明り取りとか風通しということも当然あります。同時に、自然と一つになって生きていくという生き方。これは後に三村先生から色々お話が出ると思います。そういうようなことがあって、現代のコンクリートづくりのビルの中に、たとえば京料理のお店があると、ちゃんと庭があるんですね。空中の何階建てかの建物に小さいながらも坪庭がつくられる。そういう伝統は、今に生きているということがございます。それは、伝統を生かしながら、しかも新しいものをもちろん取り入れていくということで、これが私は日本人、日本の持っている文化の力だろうと思います。
 よく文化とは何かということが議論になります。ご承知のように、文化というのは英語でカルチュアと言います。カルチュアというのは、元々はラテン語の耕すという意味から来た、これもよく指摘されることです。土地を耕すという意味なんですね。耕された結果、それがクルツゥスというラテン語で、カルチュアになるんです。それは実際に土地を耕して実りをもたらすのもあるし、個人が自分の身を一所懸命に耕す、修行する。その結果は、教養──カルチュアは教養とも訳します。いわゆる個人の場合には教養ですが、それがある集団ですと文化になってくる。そういう意味では、非常に地域に根ざしたものです。土地の根が非常に深く入り込んでいるのが文化であります。
 現在、文化庁でも地域文化振興をどうすればいいかというような方策を論じています。地域文化という言葉が、それをよく示しているわけですね。地域、土地に根ざしているだけではなくて、ある社会集団、限られた社会集団の中で、そこで習慣とか風俗とかですね、あるいはものの見方とか考え方、行動様式というようなものが、共通のものがあると、それは文化になります。
 たとえば、若者文化というような言葉がありまして、若い人の間だけで通じるような価値観がある。これは若者という集団の中での文化ですね。最近では、企業文化とかですね、企業もそれぞれでもって、それぞれの企業で自分たちのものの考え方やなんかがある行動様式がある。これは後で村田さんからお話があると思います。しかし同時に、企業でも若者でも、自分たちだけで生きるわけではいけない。企業であればもちろん、ほかの企業ともコミュニケーションも、取引も、契約もしなければいけない。そうすると、色々な文化を持った人の間で、共通の価値観ないしはルールが必要になってきます。これは個人で言いますと、いろんな地域に根ざした文化を持った人が集まってくる。人が集まってくる場所は、当然そうなります。
 人が集まってくると、色々背景が違う。しかし、そこで皆に共通のルールがないとバラバラになってしまうというので、新しい共通のルールができてくる。或いは価値観ができてくる。これが礼儀作法であり、或いはもっとはっきりすれば、法律。たとえば、契約する時はどうするという決まりですね、ルール。それから制度、そのために制度を整える。これが私は、文明と呼ばれるものだろうと思います。
 文化というのは土地に根ざした、長い歴史を持っているものであります。文明というのは、そういう様々なものが一つになって、集まった中で共通のルールから生まれてくる。もっと拡がりを持ったものなんですね。ですから、都というのは、同時にそういう人びとが集まってくる場所です。
 これもラテン語が元々なんですが、都のというか、都市のという意味、これはラテン語でキビリスと言います。そこから、シビライゼーションという言葉が出ているんですね。シビライゼーションは、元々都市のものという抽象名詞化です。都市というのは、元々いろんな人が集まってくる。そのために共通のものができあがって、したがって広く拡がります。文化の方はむしろ、土地に深く根ざすということがあって、それをどうやって拡げていくかというのが大きな問題になるんですね。しばしば、文化摩擦というようなことが言われます。あまりにも、頑なだと、他の文化と違うというので、うまくいかない。そこで共通のルールを探すということになるんです。それがうまくいかない時には、色々とそこにコンフリクトが起こります。
 最近は、「文明の衝突」というような言葉が流行っております。そういう指摘をした歴史家がいるんですが、私は文明というのは本来、共通のルールを探すもので、けっして衝突するものではないと考えています。しかし、それがあまりにも一つの文化に固執していると、そこでもう一つの文化と共生できなくなる。そこに摩擦が起こり、衝突が起こる。そこが人間の大きな問題だろうと思うのです。
 しかし、日本の場合、京都に象徴されるように、古いものをずっと持っている。これは文化的な伝統です。同時に、都であります。色々な人が集まってくる。そこで、京都の文明が生まれてくる。日本は、文化力と文明力を大変うまく持っていて、京都はその典型的な古都だろうと思います。そして、それがたとえば日本人の持っている微妙な感性と響きあうんですね。先ほどの心と結びついている。感性と響きあいます。
 日本の企業が色々なものを作っていますが、日本の作っているものは、大変にきちんとできているというのは外国でも評判であります。たとえば、私はアメリカに数十年前におりました時に、アメリカはどうしても車がいるというので、アメリカで中古車を買ったんです。アメリカに行ったんだからアメリカの車をと思って買ったら、これが故障だらけで大変往生しました。その時に、アメリカ人に、「どうしておまえは日本の車を買わないんだ」と言われたんですが、それぐらい日本の車は大変評判がよかった。というのは、細部に至るまできちんと神経が行き届いていて、きちんと精密になっている。この特色、これも日本人の感性に深く結びついていて、きちんと細かいところまで目が行き届く、先ほどの清少納言は、「何も何も小さきものはみな美し」と言っています。その人間の心に叶うものを、小さいものにまで、全部神経を行き届かせているというところがあって、そこで日本の電気製品やなんか、大変評判がいいということがあります。
 電気製品だけでなくて、たとえば日本の鉄道網、これも大変評判が良くて、JR東海の相談役さん、後でお話があると思います。新幹線というのは、私も色々利用させていただいているのですが、非常に早くて同時に正確に来る。しかも、たくさんある。新幹線技術についてはフランスも大変お得意でして、フランスのTGⅤとどっちが早いかと、しきりに競争しています。300キロメートルを超えたとか、どっちが早い、遅いということで肩を並べて──これは文明の世界ですから、世界どこでも同じであります。ところが、フランスでどうしてもかなわないのは、TGⅤにしてもですね、日本のように1時間に何本も正確に出るということはないんですね。1日、パリ・マルセイユにしても、数本であります。日本の場合には10分おき、場合によっては5分おきに、しかもきちんとできる。こういう精密さ、これも日本人の感性のしかるべきところ。つまり、伝統的な意識、感性というものが、いろんな点に及んでいるだろうと思います。
 そのようなことを、先ほど「小さきものはみな美し」と言いました。「美し」という言葉は、一つのキーワードでありまして、元々はこれは「いつくしむ」につながる。山上憶良の「めこみれば、めぐしうつくし……」という歌が『万葉集』にあります。これは愛情表現、つまり心の表現の歌なんですね。ものの形だけではなくて。
 その「めぐしうつくし」の心の表現が、いつのまにか日本人の美意識の価値観の重要な部分を占めるようになりました。これが、色々なものを受け入れながら、その中で優れたものをきちんと取り入れて、豊かになりながら古いものを失っていかないというところに繋がってくるんだろうと思います。
 ですから、西洋あるいはそのほかの国ぐにと比べてみて、日本人の持っている美意識、感性というものを──大きくわけて、私は三つの特徴があると思うのですが、一つが自然と繋がっていること。西洋でも中国でも、自然と切り離されている世界に、大変見事なものを作りあげるのですが、日本ではまちづくりから家から、もちろん歌とか美術の世界もそうですし、自然と繋がっている。ということは、自然を別のものではない、心を通わせているわけですから、これは自然と言っても、いわゆる山川だけではない、日常的な物にも心を通わせるということがあります。年中行事で京都にもございます、全国どこにでもある針供養とか筆供養。今でも盛んに行われています。
先日、私はパリでその話をしたら、なんで折れた針を祀るんだと、フランス人にはどうしてもわからなかったそうです。つまり、そこに何か心を通わせる、物の世界ですね、物の世界との心の繋がりがある。これが日本の特徴だと思います。これが第一点です。
 それから、先ほどの話にもありましたが、古いものがいつまでも繋がる。これは伝統の世界です。これは、私は文化の力というふうに考えます。それを支えるキーワードは、心なんですね。「人の心を種として」、お互いに通じあうものがある。そして、それが文化的伝統に対して、もう一つ、更に拡がっていく文明の力。これは、キーワードは、調和、和ですね。それは、「たけき武人の心をも慰むる」、決して相争うのではない、共通のものを求めていく力。これが今世界のどこでも問題になっておりますが、それぞれに文化があって、新しい文明のものはどんどん受け入れていく。しかし、同時に、どこでも様々な争いが起こっております。
 日本では、それを京都がもっとも凝縮された形で、長い歴史をたもちながら、どんどん違ったものも受け入れていきながら、一つの和の世界を作っていく。そして、それは非常に優れた歌なり美術なり、人びとの生活、年中行事、町並みなりに残されている。
 京都創生というのは、残された町並み、伝統を生かしていって、なおかつ新しいものを作っていくということになるんですが、これは同時に、世界にむけての重要なメッセージになるだろう。この混乱した世界の中で、京都の果たす役割というのは、この世紀、大変大きくなる。それはまさに、伝統であり、それを生かしていく力であるということを最後に強調して終わりたいと思います。
 どうもありがとうございます。(拍手)

●司会
 高階先生、素晴らしい講演をありがとうございました。

●司会
 高階先生、素晴らしい講演をありがとうございました。

 

パネルディスカッション

 

・コーディネーター
高階秀爾(京都造形芸術大学大学院長,東京大学名誉教授)
・パネリスト
須田寛(東海旅客鉄道(JR東海)相談役)
黛まどか(俳人)
三村浩史(関西福祉大学教授,京都大学名誉教授)
村田純一(京都商工会議所会頭)

 

パネルディスカッションの様子

 

●司会
 それでは、ただ今よりパネルディスカッションを始めます。テーマは、「世界における京都~京都に見る日本的感性」です。
 出演者をご紹介させて頂きます。
 先ほど基調講演を賜りましたコーディネーターの高階秀爾様でございます。
 つづきまして、パネリストの方々をご紹介いたします。
 東海旅客鉄道相談役の須田寛様でございます。
 俳人の黛まどか様でございます。
 関西福祉大学教授の三村浩史様でございます。
 京都商工会議所会頭の村田純一様でございます。
 それでは高階先生、よろしくお願いします。

 

●高階

高階

 

 それではさっそくシンポジウムに移りたいと思います。先ほど梅原先生からもご紹介がございましたこの4人、それぞれの分野の第一人者であられる先生方に、まず最初に京都についての思いを語って頂きます、まさに世界の中の京都で、これからどうしたらいいかとか、京都に関する思い、思い出でもよろしいです。創生プログラムに対する知恵でも結構でございます。やり方として、お一人5分から10分ぐらいのお話を頂きまして、後それぞれの中身に応じてディスカッションに移っていきたいと思います。
 それでは、並んでいる順序で、まず最初に須田様からお願いしたいと思います。

●須田

須田

 

 ご紹介頂きました須田でございます。私は、京都生まれでございまして、京都育ちであります。そして、大学を出るまで京都におりましたので、京都の人間だと申しあげられるかと思います。ちなみに、私の本籍地は中京区堺町通六角下ルというところでございますから、京都のまさにヘソであるところの六角堂のすぐそばに、私の本籍が今もございます。
 私は京都の人間なんだけれども、存外、京都を知らなかったなという反省が、実はございます。私共の子供の頃は、戦中戦後の混乱期でありましたこともありますが、結婚いたしましてから家族の者が、これは京都の人間ではなかったのでありますが、京都に行こうと言いましても、どこも連れて行くところが私にはわからない。彼女の方がよく知っておりましてですね、ここに行こう、あそこに行こうということで、家内に誘われて私、初めて京都の名所というのを見たような、非常にお恥ずかしい思い出がございます。
 昔に「京都市歌」という歌がありました。これは学校行事には必ず歌わされた歌でございまして、当時は子供心に歌詞を覚えておりました。「山麗しく水清く花の都の名に負いて偲ぶにあまる世々の跡なつかしきわが京都」。これが第一節であります。実にいい旋律でありまして、子供たちにも親しまれておりました。なぜか、この歌が戦後、歌われなくなりました。その歌を聞いておりました時に私は、「ああ、京都というのは素晴らしいまちなんだな」と。こういうまちに住んでいることは大変誇らしいことだと、子供心にも感じたことがございます。そのような状況ではございますが、今言ったようなことで、京都の良さがわからない。そこに私、一つの大きな問題があるような気がいたします。
 これから京都の良さというものを全国に発信して、あるいは世界に発信して、より多くの方にこの京都に来ていただいて、地元の住民との触れあいをして、この京都のまちを世界的観光都市にしていかなければいけない。これは市民の大きな一つの使命ではないかと思います。
 その際、どういうふうに情報を発信したらいいのかということを私なりに考えてまいりますと、まず第一は、京都に住んでいる──私どももそうだったわけですが、京都市民が本当に京都のことをどこまで知っているんだろうか。もっと、これを詳しく知って、京都の心と言いましょうか、そういうものを知っているのは地元の住民だけなんですから、そういうところまで突っ込んで発信していく必要があるだろうと思います。
 もう一つは、京都を訪れた他の地域の方がた、あるいは外国の方がたに京都を見ていただいて、ここはいいところだという印象を持っていただいたら、その方からまた、他の地域や外国で情報再発信をして頂くことではないかと、私はこのように思います。
 観光という言葉の語源は、中国の『易経』の言葉にある「国の光を観る」、あるいは「国の光を観(しめ)す」という言葉から観光という言葉が出ていると聞いております。この観光の観という字に、いわゆる見物の「見」という字を当てずに、示すという意味を持つに字に掲示の「示」という字を当てずに「観」という字をあてた。これは漢文の解釈だそうでありますが、「心を込めて観る」ということだそうであります。単にみる、ただみるだけなら見物の見だそうでありますが、観という字を書いているのは、心を込めてみることだというのです。掲示の示という字を書いて「しめす」と言わずに「観」という字を書いて「しめす」、「みせる」という言葉に訓しているのは、「誇りを持ってしめす」という意味だそうであります。つまり、その地域の優れたものを──光というのはそういうことでありますから、その地域の優れたものを心を込めて多くの人びとに観てもらう。そして、それを心を込めて見せる。この二つの触れあいから観光というものは生まれたのだと、このように私は聞いたことがあります。
 そういう心で、この京都の観光というものをこれから考えてまいりました場合に、どうしてもやはり、京都の心を知っている地元の人びとが、まず京都の情報を心を込めて発信すること。それを心を込めて観ていただいた方が、先ほど言ったように、また情報を更に再発信して頂くこと。これに私はつきるのではないかというふうに思っています。
 まずそういった意味あいで、京都の人びとが自分のところをよく知ることから始まります。そして、そういう情報を発信することによって、京都に多くの人がやってまいります。最近、私どもJR東海が、「そうだ、京都行こう」というキャンペーンをやっておりますが、このキャンペーンの予備知識を持って頂くために、東京とか名古屋とか、そういうところで、京都に対する文化講座を開きます。色々有名な方に来ていただいて、京都の文化講座を開きます。ほとんどこれが満員になります、この会場のように。大変ご熱心に皆さん、ノートをとって聞いておられる。そういう方が、ノートを片手に京都や奈良においでになってですね、そして実物をご覧になって、「なるほどここはそういうところか」と思われる時に、その方は、京都の心に触れることもできるし、京都というものを、もう少し深く突っ込んで観ることができると思います。
 やはり心というものが観光の一つの大きな要素ではないかと思うのであります。従来の京都の観光というのは、ともすれば見るだけの見物観光ではなかったと。「京見物」という言葉がございますが、見物の観光ではなかったか。単に、京都を上面だけというと言葉は悪いですけど、見てさっと去る。それがどうも京都の観光の大部分ではなかったかなと思います。
 今や、この見物観光から心のこもった本当の京都観光、観光京都にならなければいけない。私は、それがこれからの京都の大きな使命ではないかと思います。心を込めてみれば、この京都というところは、一回来て足りるようなところではありません。毎日のように来るとか、年に何遍も季節ごとに訪れるとか、そういう感じのする、深みのあるまちであることは必ずわかっていただけると思います。
 これからの京都観光振興の鍵は、京都の観光に心を込めるということではないかと。そのためにも、やはり私どもは情報の発信について、地元の人間がまず地元を正しく理解して、これを発信していくことが一番大事ではないかと思います。
 恥ずかしいことでございますが、私は金閣寺が焼けるまで行ったことがありませんでした。大学生の時に焼けたんですね。お坊さんが放火して焼けた。新聞に出た。これは大変りっぱな寺で、大事な国宝だということがわかったわけであります。そこで、どうしたかと言いましたらば、銀閣寺にまいりました。もうじき焼けるかもしれない(?)と思ったから。私の近くに住んでいた人たちはみんなそうなんですね。金閣寺なんか行ったことがないっていう。みんな銀閣寺に行きました。満員でございました。幸い、銀閣寺は焼けずに、今日もそのままあるわけでありますが、そんなものなんです、はっきり言って。京都御所だって、私、あらためて入ってことは一度もありません。家内に誘われて、高台寺であるとか、念仏寺とか、二尊院だとか、生まれて初めて行きました、50歳になってから。そんなものなんですね。
 今や情報が発達しておりますし、皆様はそんな方ではないと思いますが、やはりよその人が観るのとはちょっと違った意味で、京都の人は自分の日常の行動半径を中心にしてものを見ているだろうと思うのであります。それをよその多くの人びとの、最大公約数の目にたって見なおして見ること。その中に、私は京都に住んでいる人間の心が生きてくると思います。
 そういった情報発信をして、一日も早く「京都見物」から真の「京都観光」に、その先導役を地元の人びとが果たしていく。これが私は、今一番緊急な事柄ではないかと思います。ありがとうございました。(拍手)

●高階
 生粋の京都のお育ちの須田様から、大変重要なご指摘を頂きました。それでは、お隣の黛さん、お願いします。

●黛

黛

 

 皆さん、こんにちは。黛でございます。
 最初に謝らなくちゃあいけないことがあります。先ほど、梅原先生が私を美人だと、身にあまるお言葉をくださいました。たいして美人でも、若くもありません。そして今日いらっしゃっているパネリストの方や会場にいらっしゃっている皆さんと違って、私は京都で生まれてもいませんし、育ってもいませんし、あまり京都のことは知りません。京都には旅人としてまいります。今日は、旅人の目線で、そしてこの中では唯一の女性ですので、女性の目線で、そして一般的にはそんなに若いとはいえないんですが、今日のパネリストの中では若い方なので、一応若者の目線でお話をさせていただければと思います。
 俳句を作っていますと、よく旅に出るんですが、中でも京都にはよくまいります。今ちょうど須田先生の方からもお話が出ましたが、これまでの京都では見物観光が主流だったというお話をされましたけれど、全体的に日本の旅のスタイルがいわゆる見物観光から旅、ようするに駆け足の旅から、私はたたずむ旅に変わってきているような気がします。急ぎ足で表面を回るのじゃなくて、何か一箇所にたたずんで、そこで色々なものに思いを馳せる、あるいは一つのものをじっと見つめる、そんな旅のスタイルに少しずつ移行していきているような気がします。
 それができるのが、まさに京都だと思います。先ほど、私のつたない句を高階先生が一句ご紹介くださいましたけれど、失恋をしたり、片思いをしたりすると、京都に来たくなります。昔、「京都大原三千院」という歌がありました。恋に破れた女が一人──やっぱり恋に破れた時に、六本木ヒルズとか横浜に行く気にはならないんですよね。
 先ほど高階先生がご紹介くださった句は、「逢へぬ日を重ねて古都の月あかし」という句でしたけれども、月一つ仰いでも同じこの月を千年前、千何百年前に、同じように偲ぶ恋をたくさん歌に詠んだ式子内親王も見たのかしら、あるいは激しい恋の歌をたくさん残した和泉式部も見たのかしらと思って見上げる月、それが京都の財産なんだと思います。
 つい先週ですが、宇治で俳句の大きな吟行会がありました。読売新聞社が主催したんですが、そこで200人の方が集まって、小さなお子さんから92歳の方まで集まって、宇治を歩いて俳句を詠んだんです。その中で私がとっても印象的だったのが、宇治川のほとりにたたずんでいる、他の人と離れてただずんでる人の後ろ姿をたくさん見かけました。出てきた俳句がまた、素晴らしい句がいっぱいありまして、その中には『源氏物語』の「宇治十帖」を下敷きにしたもの、あるいは義経と義仲の宇治川の合戦を下敷きにしたもの、喜撰法師、宇治茶で明恵上人、宇治で詠まれた詩歌や歴史を下敷きにして詠んだ俳句が、たくさんその日に寄せられました。
 それだけの歴史的、文化的な背景を背負っている川、その川の流れというのは、ほかの川の流れとは明らかに違います。あるいは、その川を渡ってくる川風、川霧、浮き船、鵜飼の船がありましたけれども、その船を見ただけでも『源氏物語』への思いが繋がっていきます。
 ましてや、その宇治川の風が散らしている、萩の花や紫式部ですとかそれらが大変な情報量を背負ってくるわけですね。日本人がずっとその詩歌・古典の中で読み継いできた日本人独特の美意識というのがそこに集積されている。宇治川の風、宇治川の風がこぼした、散らした萩の花というだけで、そこに日本人としての美意識、あるいは情趣の集積がそこにある。だから、たった17音ですけれど、そこにいろんなことを詠み込むことができる。これが文化的、歴史的な資産を蓄えている土地の魅力だと思います。
 私たちは、俳句や歌を作ることを目的に行くものですから、あらかじめここに行くとなると、その土地のことを調べて行きますけれども、あるいはそこに集まった200人の方というのは、どういうふうにこの宇治川を詠もうかというので、色々勉強してから訪れます。しかし、じゃあ、この日本人がずっと詩歌の中で、または旅の中で繋いできた系譜を今の若い人たちにどうやって繋いでいくかということになると、私はちょっと疑問が生じるんですね。今の若い人たちがどこまで、たとえば宇治川なら宇治川にどこまでの思いを抱えて旅に来るんだろうかと考えた時に、あまり確信がもてません。
 京都造形芸術大学の竹村真一先生はIモードを、携帯電話を使った「どこでも博物館」というのを今尾道でやっていらっしゃいます。それは、観光のポイント、ポイントに行くと、そこでおのずと携帯電話で情報が受け取れる、そこの土地の情報が受け取れるということをやっているのですが、そこで情報を受け取るだけではなくて、その他これまで古来詠まれてきた詩歌を情報として受け取り、更にそこで、今訪れた人が一句、あるいは一首詠んで、置き手紙のように携帯電話の中に残していく。そうすると、次にその土地にやってきて、そこにたたずんだ人が、その前の日に、あるいは1時間前にそこにたたずんで歌った歌や短歌、俳句を受け取ることができる。そして、それを見てまた、自分が詠んでいくというシステムです。
 これは新しい形の歌枕づくりになるのかもしれません。
 私は、アナログ人間なものですから、なんでもデジタル化を賞賛するわけではないんですが、ただ若い人たちにこれから伝えていくためには、そういう新しいツールもやはり無視はできないな、これだけ今携帯電話が普及している中で、そういうものも無視はできないなと思います。そして、先ほど高階先生がおっしゃっていたような新しいものを取り入れながら古いものを引き継いでいくというこの日本独特の文化の作り方、今歌枕というのもそういう時期に差しかかってきているのかなと思っております。

●高階
 はい、ありがとうございました。京都そのものを知ることも大事だという最初の須田さんのお話に加えて、同時にそこに蓄積されてきた記憶、伝統、文学なり詩歌なり、そのほかの思いを知る、そして自然を知るということが、やはり文化を、更に若い人の支持を拡げていくうえで、そして文化を享受するうえで重要だと。そして、新しいものをうまく使いながらできていくといいですね。
 では、引き続きまして、三村先生、お願いいたします。

●三村

三村

 

 今日は、感性豊かなお話つづきで、お聞きしておりますと、うっとりしてしまって、我を忘れ、京都を忘れそうな気持ちになるのですが……。
 本日、私はどういうスタンスで来ているのかを考えてみますと、一つは日本建築学会という建築とか都市計画を考える大きな学会があるんですが、これが昨年まで4年間かけまして「京都の都市景観を考える特別委員会」という活動をいたしました。日ごろは京都の連中で議論していることが多いのですが、この時は建築学会の全国のメンバーから選りすぐった連中が集まりまして、「京都をほっておけない」というので──特定の地域の名前をつけて建築学会が特別研究委員会を組んだのは、京都ともう一つは阪神・淡路大震災だけでございます。京都は幸いに、そういうテーマでなくてよかったのです。活動の成果は提言として、こういう目立つような赤いパンフレットを作成いたしました。
 その時に、色々議論したあげくに、「京都の都市景観の創造的再生のための七つの提言」というのをまとめました。その提言の一つに、京都は京都市民が責任を持って住んで、営んでいるものの、やはりそれだけでは完全とはいえないのだから、世界の人あるいは全国の人たちの応援を受けて守り作っていかなきゃいけないというので、これをナショナル・プロジェクトとして取りあげるようにという提言の1があります。
 それから、景観は山の方とか、川の方とか、山紫水明の方はかなり美しくなってきたようにも思われます。また、世界遺産の指定になっておりますのは、周りの山ろくの有名な社寺とか、そういう重要な文化財が中心であります。これに比べて京都の町中はその調整地域ということで、そういう世界遺産の邪魔にならないようにまちを維持しておるんだぞというぐらいの位置づけでしかありません。これではいかんと、京都の町中というのも、すごい歴史が籠っていて素晴らしいところだから、これをもっと大事にしなくてはいけない。しかも、そこには人びとが住み続けているので、生活文化の継承と教育を重視しなくてはいけない、と提言しています。
 それから、建築学会ですから、なんと言いますか、たとえば木造建築というようなものが、都市計画の防火地域の制限なんかで京都からまったく消えてしまうのはいかんと。もっと現代技術を駆使して、木造の伝統技術と現代のハイテク技術を組みあわせたまちづくりを考えるべきである、こういう提言をしております。私もその時のメンバーの一員ですので、ここでもう一回、改めてご披露しておきたいというのが、今日の一つのアピールです。
 もう一つは、町家を基調にするまちづくりというテーマでして、私だけ少し裏工作で、こういう美カラー刷りのパンフレットを作っていただいて、ほかのパネリストの方には申しわけないのですが……。これを説明しておりますと2時間ぐらいかかりますので、後でゆっくり見て頂きたいと思います。
 少し前は、古臭くてかび臭いとか、地震に危ないとか、建て替えたいとか、そういう風潮だったのですが、最近、私も15年ぐらい「町家、町家」と言ってまいりましたら、そのうちに町家ブームになってきまして、中には町家で商売して使い棄てるというような傾向もありますが、町家を大事にしようという意識が高まってきました。
 先ほど市長さんが、「町家は年々減っている」と言われましたが、1999年に調査を始めて、今年に5年目の調査を行いましたが、たしかに減ってはいます。しかし、今住んでおられる方はかえって、修理をしたり、きちっと改造したりして、良い状態で住んでおられることがわかりました。やはり、町家に思い入れがあって、これを大切にして使いたい、住みたいという方がたくさんいるということに注目したいものです。
 最近は、町家を支えていくNPOというんでしょうか、町家を支えていくグループがたくさん生まれてまいりました。町家再生研究会とか、木造の住文化を考える会とか、西陣町家倶楽部とかですね、そういう町家を支える団体がいくつも立ち上がってきております。こういう人たちのエネルギー、最近は町家をもっと大事にしようという動きが、かつてなく高まってきているわけです。
 なぜ今,町家かということですが、これは感性の問題になるかもしれませんが、やはり京都の町衆が作って、そこで住み、そしてたとえば木の格子があってですね、表通りと家の中とがいつも気配を通わせている。それから、お隣の空に迷惑をかけるような建築をするのではなくて、自分のところに坪庭を作って細長い敷地の中で環境を管理している。それから、お店と住宅、多世代が住めるような住宅を作っている。そして、最近のマンションだとかなんとかでちょっと失われがちですが、四季折々に──これは大変なことですが、四季折々にしつらえをして住んでいく。それで、町並みとしては、全体としてはわりあい統一されているのですが、個々のお店とかお家を見ると、色々しつらえとか店の周りのあしらいとかいうようなところできちっと個性が出ている、全体としてたしなみがきいている。こういうのは、京都の町中で住んできた人たちの生活空間の原型なんですね。
 私たちは、別に今の木造のものを全部残せなんて言っておりません。新しい町家がどんどん出てきています。しかし、まだ、今作っている住宅の多くは、まだまだそういう町家が持っている京都の伝統的な原型というのでしょうかね、プロトタイプというのですが、そういうものの良さの読み込みが足りないんですね。ですから、そういうものをきちっと勉強して読み込んで、京都らしい新しい住宅を作って頂くためにも、原型としての住宅はできるだけ維持していかなくてはいけない。これが私たちの主旨であります。
 私が一つ恐れているのは、次に日本建築学会が特別委員会を作る時に、京都大地震復興特別委員会というようなことにならないことですね。災害復興ということになりますと、今の6メートルの京都の町中の道幅は、たぶん12メートル以上の幹線道路が走って、両側は新しいビルディングでいっぱいになるでしょう。かりにそういう状態になってしまった時に、京都の町中の魅力というのはどうなるのでしょか。京都の町中にはおそろしい魅力が潜んでおりますので、今から本格的に保全できる取り組むプロジェクトを提言したいと。これは今、町家に関わっている人たち共通の思いではないかと思います。
 以上、日本建築学会と町家まちづくり支援団体を代表して、私から一言申しあげました。

●高階
 はい、ありがとうございました。
 町家の魅力というのは、私ども外から伺った者でも大変よく分かるんですが、同時に生活、生き方の問題ですね、四季折々の生き方、それからお向かいの方、隣の方、道もやたらに拡げるわけではなくて、そこが一つ自分の中から外に繋がった世界になっていくという生き方。そのようなものはやはり日本の貴重な伝統として生かしていきたいという感じで伺いました。
 それでは村田会頭、お願いいたします。

●村田

村田

 私が中学生の時の社会科の先生が、京都の都市美について写真でも絵でも何でもいいから、とにかく一つ描いてこいと。下に、それがどうしてきれいだと思うかを書けという宿題のようなものがあったんです。
 私は、子供の時からずっと、鳴滝という郊外に住んでいましたので、今はよく分かるんですが、その時はその先生の意図されることがよく分かりませんで、非常に困ったことがあります。その時先生は、名所・旧跡、お寺お庭はだめだと。それ以外のところで京都の美しいものを描いてこいと。
 よくできた子供は、たしか出雲路橋から上を見た──川があって、山があって、橋がきれいで……。それを絵に描いて、これが京都のいいところだと書いて満点をもらっていました。私はずいぶん劣等感を覚えたことがございます。
その後、若い時はまず大人になるのに忙しいし、大人になっても仕事で大変で、衣食住にも効率を求めてもがき苦しみます。京都の美しさとかそういうことにあまり関心はなかったのであります。しかし、だんだん歳をとって、40歳、50歳、特に60歳を超えてきますと、たとえば海外に行くと、きれいな町並みを色々見ますね。何も寺院だけじゃあなしに、ちょっとした裏町にも感動したりします。先程は京都の町家のことをおっしゃいましたが、外国でも調和のとれた、背の高さも同じにして、周りに迷惑をかけないように配慮しながらも個性を持った町並み、オフィスビルでも非常にきれいにしているのを見て感心したりします。そういう経験を積んでまいりますと、人間はまず、食べて着てということも大事ですが、住むところは自分の巣であります。それが居心地のいい、人から見てもいいなあという印象を与える。これは大事なことだと思います。
そういう目で見まして、昔の京都はずいぶんりっぱなもの、きれいなものが残っていたのですが、残念ながら戦後の60年間は、現在住んでいる京都人は、ずいぶんまちをきたなくしたと思います。看板から電柱・電線から……。自分の生活は、中は冷暖房して、テレビを置いて、居心地よくしていますが、いったん外を見ると、見るも無惨と。お互いに、外を見合うと、そういうことが分かると思います。
 そういう中で私、商工会議所の会頭に選ばれまして、3年前ですが、最初に、これでいこうといいましたのが、「美感都市・京都」というテーマでございます。これは美しく観るではなく、美しく感じると書きます。ともかく、京都のまちをきれいにしようということを心がけるものでした。
 元々京都は自然が美しい。ことに鴨川のあのきれいな水、140万もの人が住んでいるまちの川にアユが棲んでいる。海外の人がくるたびに私はこれを自慢するのであります。こういうまちは、世界にないでしょうと。山村ならともかく、140万もの人が住んでいるまちの中にアユが棲んでいる。外国の人には、トラウトが、マスが棲んでいると言っておくのですが……。
 京都は、その自然の美しさと、やはり伝統産業。古いいいものがたくさんありますが、同時にハイテク。これも京都にたくさん根付いております。こういうものが一体になったまちというのは、世界にも例がないと思います。古いまちとしては、アテネとかローマとか、色々ありますが、それはなんとなくきたないまちになっております。一方、自然の美しさだけで言いますと、スイスの町の自然はきれいですが、そこには伝統とか古いものはあまり残っていません。ボストンは、アメリカで一番古いまちでありますが、京都に比べると古いとは言えませんし、ロンドンやパリは大都市でありますが、京都のような自然の美しさがない。歴史・自然・伝統産業の全部がそろっている京都は、本当に希有なまちだと思います。
とはいえ、この京都のまちは自然に受け継がれ、今の状況を迎えたわけではありません。過去には何度も何度も危機がありましたし、その度に我々の先祖が努力してまちを再建し、継承し、磨き上げ、今に伝えてくれたと思います。私共もまた、一方ではきれいな自然を、古き良きものを守ろうとし、もう一方ではハイテクをはじめ、新しい産業を作ろうと一所懸命に努力いたしております。
 先日、京都創造者憲章、これは京都ブランドを、個々の品物だけのブランドでなく、京都のまち全体を一つのブランドにして、そのまちに住む人の心もいいし、そのまちでできる品物もいいですよと。信用・信頼がそこに入っていますよということを世界にアピールする運動を京都で始めました。京都造形芸術大学の芳賀徹先生にお願いして、これも先程の『枕草子』でありますが、『枕草子』から春、夏、秋、冬のいいところをとって、それぞれ京都人はそのものづくりにどのように努力していくかを明らかにしたもので、非常にいいものができました。これを中心に、我々としては、今後とも京都のまちを豊かに、しかも美しくしていこうと思っております。
 ただ、そうは言いましても、私が非常に残念なのは、たとえば今の木屋町の荒れよう、それが木屋町だけでなく、だんだん河原町まで悪くなってまいりまして、河原町なんかでもパチンコ、カラオケ、ゲーム等々……。昔の河原町通というのは、京都で一番美しい商店街でしたが、今は見るも無惨であります。現代の京都は、本当に悪くなっていっていると思います。それを良くしようという方はたくさんおられるわけです。しかし、それは皆ばらばらなんです。
 そういう中で、私が感心しますのは、たとえば鴨川を美しくする会。この会には、30年前から鴨川をきれいにしていただいておりますし、五山の送り火を維持しておられる方なんかも、下草を1年中刈っていただいている。大変な努力だと思います。また、京都の祭り、祇園祭でも、町衆がボランティア的におやりになっている。京都を良くしようとする人はいっぱいおられるのですが、まあ1割ぐらいでしょうかね、心ない人がどんどんまちを悪くしていく。
 そういう意味で、今回の京都創生のこの会も、そういう善意の京都の人が一つに結集して、そして声を大きく張りあげて、京都のまちを将来にわたって──戦後60年間に悪くしたんですから、後30年ぐらいをかけてきれいにしていければなと思っています。
 ただ一つだけ、その時に京都の偏狭な──これはナショナリズムではなく、地域ローカリズムというんですか、京都はいいよ、京都はいいよと、すべて京都はいいという誇りだけではいけないと思います。
 今の東京にはすべての人と金と情報が集まりまして、素晴らしいまちになっています。京都においても、市民がそういう運動に参画して、偏狭な京都主義でなく、大らかで自信があって誇りを持つ、京都を良くしようという人の集まりで持って、京都を今後ともいいまちにしたいと思うしだいでございます。

●高階
 はい、ありがとうございました。
 それぞれの皆様から、まずお話を伺いました。ただ今のそれぞれの方のお話を伺って、あるいは先ほどは言い足りなかったようなことも含めて、どなたからでも結構ですが、お話を進めたいと思います。
 今もの村田さんのお話、学校で、自分が美しいと思う京都を見つけろと先生に言われたと。これはやはり大事だと思うんですね。もちろん、名所旧跡は大事であります。しかし、誰かが見つけたものをたとえば絵に描く、あるいは歌に歌うということで、そこに新しい伝統が生まれてくるわけですね。
 私、パリには、何遍も行っていますが、結構汚れていて、ごみが散らかっていたりするんです。しかし、なんとなくいいまちだというのは、パリを描いた画家たちとか歌いあげた詩人たち、そのイメージがやっぱりあるんですね。それは、実際の姿を美しくすると同時に、宇治川が美しいというのは「宇治十帖」があったから、あるいは源平の思い出が我々にあるから。それが伝統ということだろうと思いますし、大変大事なことだろうと思います。それを生かしながら、しかし実際に三村先生がやっておられように、まちそのものも美しくしていくことが必要だろうと思います。特に自然と一緒に生きる生き方も大変参考になったと思います。
 それではいかがでしょう、須田さん。

●須田
 京都の文化というのがどうして形成されてきたのかと見てまいりますと、京都の人はやっぱり優れた人がいたんだろうと思うのですが、新しいものと古いものの融合、見事な融合がここで成し遂げられて、近代の京都の文化を作っていると思うのです。
 昔、更にそれを遡れば平安時代の文化が安土桃山文化になって、京都独特の文化がここにできるわけであります。これもやはり一種の融合です。それがずっと発展して明治以来をずっと見ておりますと、昔から積み上げられてきた古い文化と明治以来の近代文化がみごとに融合しているんですね。それを融合させたものは何かというと、やっぱり京都人の知恵だと思います。
 たとえば市内電車、バス──乗合自動車ですね、トローリーバス、地下鉄、こういうものは全部、日本で京都が最初なんですね。地下鉄は関西で最初だということでありますが、阪急の地下線ですけれど、後は全部京都が最初です。そういうものをなぜ、このまちはとったか。やっぱり、何か新しいものを取り入れていこうと考えた。そしてそれが古い京都のまちにみごとに調和しているということなんです。
 その最たるものが、私は琵琶湖疏水の工事だと思います。あれだけの大土木工事をやって、南禅寺の水路閣にしても、蹴上の発電所にしても、古い風格のあるレンガの建物を作って、きちっと京都の風光の中に入っておりますね。素晴らしいものだと思います。こういうものが京都を新しくしてきた。そういう近代的な土木工事や新しい交通機関なんかというものが媒介して京都の新しい文化が生まれた。
 今はどうなっているかというと、やや行き過ぎの感がありまして、先程来お話が出ておりますように、乱開発が出てきて、今、悩んでいるわけですね。ここで大事なことは、これまで出てきた京都の新旧文化の融合によって見事な文化を形成した力というものを、もう一遍思い直して、それらをうまく使って現代の文化と今後の超近代の文化を融合して、どういう新しい文化を京都に作るかということを、京都の市民の皆さんが文字どおり、これは全国民と一緒になって考えていくべき時期にきていると思います。
 土木工事やそういう交通機関の発達というものが、近代の文化を作ったということになるならば、こんどはまちづくりという一つの市民の力が必要だと思います。何か、そういうようなことで、先程来お話があるような、たとえば町家の保存も一つのケースでありましょう。新しいまちを作らなきゃあいけない。147万人住んでいるわけでありますから。そういうようなことで、何かそこに一つの市民から盛りあがる力というものが出てきて──私も元市民として力を尽くさないといけないと思うのでありますが、そんなようなことで新しい何か、近代文化と超近代文化が融合した何か新しい京都文化というものを作りあげる時期になっていると思うのです。乱開発やペンシルビルは、そのための産みの悩みだ、苦しみだと思えばいいと思います。
 南の方に建っている京セラさんのものすごい大きなビルディング、あれと京都御所や金閣寺や銀閣寺等、かなりの距離にありますけど、あれをうまく精神的に調和させるにはどういうことをやったらいいか。私、そこに何か知恵があると思うんですね。それがやはり、京都の文化を作る知恵だと思います。町家の保存、電柱の地下化、それから、今言われている色々な景観の保全、大事なことだと思いますが、何かそこにも一つ心が欲しいんですね。昔からの文化と今の文化を融合して、新しいものを作りあげるという心があれば、私は京都の文化というのは、これからもどんどん発信できるりっぱな文化になっていくんじゃあないかと思います。

●高階
 はい、ありがとうございました。大変モダンなものも確かに京都にあるんですね。古いものと同時に。それが場合によっては行き過ぎもあるかもしれないけれども、どんどん新しいものを取り入れていくという京都の持っている一種、開かれた心、これは大変大事だと思います。
 そういうものも、たとえば俳句の世界、歌の世界では、伝統的なものももちろん大事で、古い歌やなんかを引き継いでくるわけですが、テーマとして、俳句は特にそういうことがあると思いますが、歴史的にみても。いかがですか、黛さん。
 新しい、京都にきて、あるいは吟行なんかをやった時、もちろん宇治の思いというのもあるんだと思います。源氏物語の思い出もあるんでしょうが、新しいものを見いだすとか、皆さんの間で、そういう動きみたいなものはございますか。

●黛
 そうですね。俳句は、季語というのはとても大切になるんですが、新しい季語を見直していこうという活動は私たちも、若い人たちが中心になってやっているところです。と同時に消えてゆく古い季語の見直しもしています。京都の暮らしの中には、もう日本のあちらこちらで見なくなってしまった季語というのが、今でもたくさん残っているんですね。
先ほど三村先生が、「町中に本当に大事なものがある」というようにおっしゃいましたけれども、要するに名所と名所の間にあるもの、そこにあるものは人の暮らしですよね。その中に、実は日本人の伝統がある。
たとえば、名所と名所を辿るのに、道を間違えてしまって分からなくなってしまって、町中で京都の人たちに道を尋ねた。そんな時に、京都の人たちの挨拶のしかたとか、庭のたたずまいだとか、暮らしぶりだとか、風鈴の音だとか、そういうものによって私たちは、「まだ、ここに日本の伝統が残っているなあ」というふうに思います。そういうものを外国人のお客さんも含めて、名所旧跡だけではなくて、日本人の暮らしの中でずっと守り継いできた、そういう伝統というのを、外国人だけではなくて、日本の若い人たちに、よその土地からきた人たちに、ぜひ京都の人たちに語り部となって伝えていただければと思うんですね。
 伝えるべきものの中に、言葉があります。つい先日、何人かの仲間と、長野の方に旅をしまして、その中に一人の俳句をやっていない人が言いました。「まだ、ぜんぜん紅葉していないね」と、その人が言うんですね。私から見ると、紅葉は始まっているんですね。俳句の季語では「薄紅葉」とか「初紅葉」という言葉があって、本当にほんのりと、うっすら紅葉が始まった状態です。全山真っ赤にというのも美しいですが、そうではなくて、ややに始まりかけた、その薄紅葉に日本人というのは心を寄せていく。移ろうものに心を寄せていく。それが日本人独特の美意識だと思うのですが、それが薄紅葉とか初紅葉とかいう言葉を知っていることによって気がついていく、発見されていく。そういう言葉を知らないと、わずかな移ろいに気がつかないで、「ぜんぜんまだ紅葉していないね」という受け取り方になる。
 もう一つ、これはある韓国人の方から、「黛さん、遣らずの雨」という言葉をご存じですか」というように聞かれました。私は、亡くなった祖母がよく遣らずの雨という言葉を使っていて──これは皆さんご存じだと思いますが、お客さんが帰るころに降り出す雨のことを言いますよね。帰らせたくなくて、降り始めた雨。よく祖母が、「遣らずの雨が降ってきたんで、もう一杯お茶を飲んで行ってくださいよ」なんていうことを言っていたのを日常の中で覚えています。
 その韓国人のユンさんという方は、30年ほど前に初めて仕事で日本に来た。当然のことながら反日教育を受けていますので、日本人のことは嫌いだった。仕事でしかたなく日本に来た。それで1週間か10日間か仕事をして帰る時に、空港に送ってもらう車の中で突然、雨が降り出した。その時に、日本の一緒に仕事をしていた人が、「ユンさん、遣らずの雨が降ってきましたね。日本では、こういう時に、遣らずの雨って言うんですよ。あなたを帰したくなくて雨が降り出したんですよ」ということをおっしゃったんだそうです。その一言を聞いてユンさんは、それまで抱いていた反日感情がたちまち解けていったとおっしゃるんですね。
 「こんなにポエティックな言葉を使う民族に、悪い民族があるわけがない、こんなに繊細な、雨は雨ですむものを、遣らずの雨というほんのひと時降る雨に、これだけの詩的な表現を使っている民族は心やさしい民族に違いない」と、その時に思った。それからぼくの反日感情が一気に解けましたとおっしゃっていました。私は、これこそまさに、文化力、文化外交力だと思います。
 あるいは、京都では冬になると時雨がありますけれど、時雨も様々な言い方で、私たちは使い分けています。たとえば、桜の頃に降ってくる雨のことを「花時雨」と言ったり、あるいは青葉のころ降る雨を「青時雨」といったり、それから冬の時雨でも、時間帯によって「夕時雨」と言ったり「小夜時雨」といったり、あるいはまちの片側1箇所だけ降っている時雨を「片時雨」、あるいは私の上だけ降っているので「私雨」と言ったり、一時ひとしきり降る雨を「村雨」、「村時雨」と言ったり、時雨という言葉だけでもこれだけたくさん使い分けていくわけですね。これは言葉の財産です。こういうことを私はぜひ、名所旧跡観光スポットと同時に、海外のお客様、あるいはよそから来た人たち、若い人たちにぜひ、皆さんが語り部となって伝えていって頂きたいと思います。
 以前、近江に旅をした時に、石山寺を見た後で、湖北に向かおうと思って電車に乗りました。たまたまボックス席で向かいあったおばあちゃんとお話をしていたんですが、「夕焼けがきれいだから、今日は湖北も晴れているでしょうね、明日も晴れるでしょうね」って私が言いましたら、そのおばあちゃんが、「いやいや、わかりませんよ。北時雨って言ってね、こういう時期の湖北は直ぐにしぐれてくるから、向こうに行ったらしぐれているかもしれませんよ」と。その時「北時雨」という言葉を教えてくださいました。それは、おそらく季節限定の雨の名前だと思うのですが……。
 こういう出会いがあった時に、石山寺もいいんですが、そういう車中での出会い、その時になんとも言えない旅の醍醐味とか旅の情緒というのがあるんですよね。これは私は、Iモードではできないことだと思うのです。これはまさに、人から人へ伝えていくものだと思うのです。

●高階
 はい、ありがとうございます。
 たしかに、言葉がないと見えるものが見えないということがありますね。言葉によって生まれる文化の伝統だと思います。雨や霧や風、つまり自然現象を言う言葉が非常に多い、日本の場合に。今の雨や時雨だけではなくて、色々な言葉に細かく分かれている。それだけ、日本人がそういうものを読みとっているんだと思います。今の時雨のいくつかを英語に訳すのはなかなか大変だろうと思います。(笑)

●黛
 それはそうですね。(笑)

●高階
 俳句は今ずいぶん世界的になっていますけど、そういう季語をどういうふうにしていくのでしょうね。つまり、逆に言えば、そういう繊細な感情というのは生きているよということを知らせることは必要でしょうし、我々それをまた、その時雨はたんなる自然現象だけではなくて、色々な思いがありますね。遣らずの雨もそうですし。私、今思い出したのは、俳句といっても自由律ですが、「後ろ姿の時雨れて行くか」という、ああいう思いですね。これも雨であると同時に何か、深い思いがあります。そういうものは大変大事なことですね。ですから、絵に描いたり、歌に残したりすることの良さということが大変重要だと思います。
 そういういわばソフトの面と、ハードの面で、町家を残すとかですね、特に四季の生活の仕方がある。三村先生、京都というのは、私も最近に来て、夏は暑いし、冬は寒いし……。東京よりよっぽど寒いような気がする、東京よりよっぽど暑いような気がするんですが、じゃあ冷房入れようかとか、なんか色々考えるのだと思いますが、その生活の中で四季折々のしつらえをしていくというお話がございました。同時に、実際にも、そういう知恵というのは、今生きているのでしょうか。

●三村
 今日は詩歌の世界が多くてですね、建造物の方は旗色が悪いんですが……。(笑)

●高階
 いやいやぜひ……。(笑)

●三村
 京都の町中の暮らしというものの中に、いっぱい情感が籠もっていると思うんですね。ですから、なんかジンとくる底冷えとかですね、壺庭に降る雨とかですね、夜の格子をとおして見る家の中の灯りを見る気配とか、こういうのをたくさん拾っていけば、季語にもなる要素がいっぱいあると思うんですね。
 ですから、今思いついたんですが、黛先生ご一行をおよびして、町家まちづくりの吟行をして、句会を開いてもらい、新しい季語のボキャブラリーも増やしていくと。「マンションの谷間に見る月かな」とかですね、こういうものを増やしていくとかですね。(笑)
 そういうことで、たとえば空(そら)とのお付き合いは大切ですね。京都の現代の建物の屋根は冷房機器を置いたり看板を置いたりして、空との付きあいが悪いんです、きたないんです。きれいな屋根というのはすごく重要で、たとえば淡雪が降った時の瓦屋根の眺めというのはきれいなんですが、今のビルだと屋根というものは、物置場にしたりですね、冷房機器の置き場になっている。壺庭から見上げる四角い空というのも、すごい季節感があってですね、むしろ切り取ることによって季節感が濃縮されてくるような気がするんですね。そういう季語の素材もいっぱいあるので、ぜひ吟行して頂きたいと思っております。
 とにかく町家を見直して大切にしようという気運はそうとう盛りあがってきました。京都市役所も、町家を大事にするとか、職住共存地区を作るとか、色々こう──ここのパンフレットでも書いているように、こんなことをやろうとかいうことを21項目も言っているんですが、肝心のアクションをどうするかというところが、共感をまだまだ呼び足りないという感じがしますね。
 ナショナル・プロジェクトというのは、なんか今日の京都新聞に「京都市の創生策案」とかいって出ていたんで切り取ってきたのですが、何か中央官庁にお願いに行くみたいな、霞ヶ関頼みみたいなことがナショナル・プロジェクトだという気配です。ナショナルというのは中央政府、つまり霞ヶ関の中央政府じゃあなくて、これは国民とか広い意味の京都を大事にする──先ほども京都を良くしようとする人たちの集まりだと、村田さんは言われましたが、やっぱりそういう人たちの支持層があってのナショナル・プロジェクトだと、あるいはインターナョシナル・プロジェクトだと思うんですね。ですから、霞ヶ関ばっかり当てにしても他の都市のこともあります。たとえば、「京都で京都創生懇をやっていますよ」って言ったら、奈良の友人が、「そんなことなら、うちも入れてちょうだい」って言うんです。いやいやダメダメ、それぞれ独自にやるんだからとか言っていたんですが。それぞれ自分の都市づくりのファンクラブというのか、京都を大事にする会員をどんどん募っていって、この創生懇も50万人ぐらい会員があって、それでメールだとかレターで応答しながらやっていくようにして、それで霞ヶ関に持って行けば効果があるんだと思うんですね。
 中には絵を描く会とか、歌を詠む会とか、吟行会とかですね、感性と経営施策とを一体にしたナショナル・プロジェクトの取り組みでないといかんのではないかなあと思っています。そういう意味じゃあ、「町家、町並み、まちづくりの詩歌集」というのも作ってみたいとヒントを頂きました。(笑)

●高階
 いいですね。ありがとうございます。村田会頭、ナショナル・プロジェクトを京都の中で拡げていくというようなことで、いかがでございましょう。

●村田
 今三村先生のおっしゃることにまったく同感でございます。京都は非常に不利でして、たとえば京都市の税収──京都府の税収もそうですが、他府県に比べて低い。一つの大きな原因は、たとえば固定資産税が、お寺は宗教団体ですから払わないわけですが、これは非常に大きな部分を占めておりますので、税収が少ない。それから京都は今、ベンチャー・ビジネス──古いものを守るのもいいのですが、新しいものをどんどん呼び込んでいこうという時に、他府県からも元気のいい人に来てほしいんですが、京都の地価は高いんですね、住むのも、事務所も。全国で4番目です。東京、神奈川県が高くて、大阪も高いですが、京都は4番目ぐらいなんですね。何をするにも、京都は高くつきます。色々なハンディキャップがあります。たとえば、建物を建てようと思うと下を掘りますね。埋蔵文化財が出ます。そうしますと、1年間ぐらい寝かしておくことになる。コストがかかります。それで大変なのですね。
 京都市も、なんとかこのまちを保存するうえで、これは京都のまちというよりも、日本のまちだから、全国の税金で少しはお金も出してくださいということでもあるんです。しかし、今先生がおっしゃったように、東京の人から見れば、「なんで京都だけにそんなことをしなくちゃあいかんか、奈良でも鎌倉でも同じことを言うじゃあないか」ということになります。東京の人から見て、京都は一所懸命にやっているねと。本当に一所懸命にやっていて、「ここまでやっているが、なおかつ少し不利な条件があるから、見かねて助けてやろう」というところに持っていかないといかんと思うのですね。
 ですから、まず我々でいろんなボランティア団体、それから産業界、それから府、市、学校、一般の市民も巻き込んで京都を良くしようという、そういうフォーラムと言いますか、組織を作っていったらいいと思います。そして、いろんなところで、いろんないいことを皆さんなさっていますから、そういう人が集まってそれを盛り上げて、ここまでやっているけれども、足りないところは中央のお金も少しは入れてくださいというように持っていければいいなと思っています。

●高階
 そうですね、別に国に、霞ヶ関にということではないんだと思いますが、実際にも様々なことが行われていて、ここにいらっしゃる皆さんもそれに参加しておられるんだと思います。非常に示唆的なお話がそれぞれ出たんですが、もう時間もかなり過ぎてしまいました。
 パネリストの先生方、この機会にどうしてもこれ一言言っておきたいということがあれば一言だけ──なんかありそうですね。短くお願いします。

●須田
 一つだけ申し上げますが、皮肉に聞こえるかもしれませんが……。よその人が京都に来て間違った印象を受けて帰っていることがいくつかあるんです。
 たとえば五条大橋ですね。あれは牛若丸と弁慶の銅像が立っていますが、昔の牛若丸・弁慶時代の五条大橋は、ご承知のように松原大橋です。京都御所は、794年に太極殿ができたところじゃあなくて、今の千本丸太町ですね、太極殿のあったところは。本能寺も、明智光秀に討たれた本能寺はあそこではありません。本能小学校のところですね。それをみんなが名前を聞いて、そこだと思っているんです。また、それを知らせるようにしていない面があるんですね。間違った情報が出ています。この三つだけ例をとりましても、残念に思います。
 最後に一言だけ申し上げますと、やはり市民が、私も含めてこのまちの良さを心から認識すること。そして、市と一緒になって、この市のまちづくりを一緒に担っていく。そして、京都のアイデンティティを作ること。そういうふうなことで、これから誇れる京都にしていく、こういうことではないかと思います。
 ありがとうございました。

●高階
 はい、ありがとうございました。(拍手)
 たしかに、色々と私どもも勉強しなければいけないこともありますし、京都の方から──私、外から来て教えて頂くこともあり、同時に京都の方がたと一緒になって、新しいまち──私はそれは世界に通ずるもんだと思っております。世界に向けてのメッセージになるということ。
 青時雨をどう訳すかというようなことは少し考えていただかなきゃあいけないんですが、そういう感性を持っている素晴らしさも含めて、京都の魅力というものをご一緒になって考えていきたいと思います。
不手際で、充分お話を引き出せなかったかもしれません。時間もかなり経過いたしましたので、ここでシンポジウムを終わりたいと思います。パネリストの先生方、どうもありがとうございました。(拍手)

●司会
 出演者の皆様、どうもありがとうございました。それでは、これをもちまして、京都創生推進フォーラムを終了させて頂きます。本日はご清聴頂きまして、誠にありがとうございました。
 伝統と自然という大きな財産を持っている京都の人びと、それから京都に憧れや期待をもってくださるすべての皆様とともに、現代人の心という財産を引き継ぎながら、京都創生に向けて努力をしてまいりたいと思います。
 京都の創生は、皆様一人一人のお力にかかっておりますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 本日は、京都創生推進フォーラムにご参加頂き、誠にありがとうございました。

 

 

平成17 (2005)年2月2日更新 京都創生百人委員会事務局

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