平成29年3月号 あの日あの頃
ページ番号214825
2017年3月1日


早いもので60歳の定年まで残りわずかとなりました。私が京都市消防局に入局したのは,昭和50年4月,まだ18歳の若さです。鹿児島県鹿屋市出身の田舎者の私は,京都はもちろん,本州さえ渡ったこともなく,見るもの・聞くこと何もかもが初体験でした。西鹿児島駅(現:鹿児島中央駅)から夜行列車に乗り,駅で別れるときにとても厳しかった今は亡き父も涙を見せていました。何としても親に心配はかけないよう心に誓い,京都の地を踏みました。伏見区にあった前の消防学校に第75期生として入校。当時は,京都市以外にも精華町や久御山町からも入校していました。初任科生時代,郷里のことを想い出しては休憩時間に10円玉を握りしめ,校内にあった公衆電話から実家や友達に電話をし,鹿児島弁を使ってしゃべったものです。ついつい長電話をしてしまい教官から怒られたこともありました。当時の初任教育は4箇月で消防学校を卒業し,各々各署に新配置となっていました。はじめは,怖い先輩方に怒られっぱなしの日々で,仕事が続けられるかとても心配でした。特に厳しかった挨拶など(食材の切り方,味付け,食器の洗い方,布団の敷き方,風呂掃除)ありとあらゆることを指導いただき,時にはやさしい愛情をいただき,その先輩や上司のおかげで今の自分があると感謝しています。当時の消防署には受付勤務があり,道を尋ねて来られる方や時には観光地の名所を尋ねられたりで,消防は,地理が一番大切(もちろん水利も)でした。パソコンやスマホもない時代で,住宅地図さえなく,先輩の手書きの地水利用図を写して,非番や休日に歩きまわり覚えていきました。



地方からきた職員は,独身寮に入寮するのが当然の時代でした。私は,深草寮にて同郷の鹿児島出身の同期生と2名1室の寮生活がスタートしました。当時の寮には,管理人さんと寮母さんがおられ,職場から帰ってくると,ホッとして職場の出来事を自分の親のように話し,時には相談をしたのを昨日のように思い出されます。寮といっても食事は自炊で,弁当も毎日作っていました。寮内は,先輩や同期生たちと鍋を囲んで郷里の話や仕事の話,時には恋話などをして夜遅くまで談笑していました。


消防署に新配置となり5年ほど経ったときのことでした。寮の先輩から,手話講座に参加しないかとのお誘いを受け,何かの役に立つかもと軽い気持ちで参加することにしました。講座の内容は基礎だけで,十分な習得はできませんでした。そこで,近くにあった手話サークル「みみずく」に入り,ろうあ者や健聴者の方々とも知り合いができ,色々な活動に参加させていただきました。おかげで,ろうあ者とのコミュニケーションをとることができるようになり,救急や消防の現場活動や日常業務に生かせることができました。特に救急現場では,手話を使って普段飲んでおられる薬や既往症,かかりつけの病院などを手話により聴取したり,手話ができることにより傷病者の方が安心され,病院到着後も,医師から通訳してほしいので引き揚げないでくれと頼まれたこともありました。手話は,私の消防人生にとって本当に欠かせないものと感じており,手話を用いた救命講習など,今後の人生でも手話を活用できたらと思います。


お問い合わせ先
京都市 消防局消防学校教育管理課
電話:075-682-0119
ファックス:075-671-1195