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京都市消防局

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平成27年12月号 あの日あの頃

ページ番号190710

2015年12月1日



 昭和55年(1980年)4月,好天と満開の桜とに大歓迎されての入校。モヤモヤとしていた不安もどこへやら,希望ばかりで胸は膨らんでいた。今,長く早かった36年が経ち,42名の同期生も38名に減ったが,それぞれ秘めた闘志を心に,時に瞳の奥にメラメラした炎を垣間見せるような,そんな期生であったような気がする。 


 さて,昭和55年の国内の災害としては,8月に14名の死者を出した「静岡駅前地下街ガス爆発事故」や11月には宿泊客ら45名もの死者を出した「栃木県川治プリンスホテル火災」(旅館・ホテル等の防火基準表示制度の契機,昭和56年運用開始)が思い出される。

 一方,京都市内では,翌56年2月に私の配置先であった中京消防署管内の壬生で,計39棟延べ2,539㎡が焼失する大火災が発生した。火の手は,時の風にあおられて瞬く間に広がり,火災の上昇気流によって屋根瓦が500メートル以上も遠く離れた所まで飛んでいったとも聞いた。同署の非直職員や毎日勤務者らに非常召集が掛けられたが,ちょうど公休日だった私は,同じ休みの先輩と寮でテレビ中継に見入った。翌,出勤すると,職場は壬生の大火のこと一色で,その雰囲気は人事異動でメンバーが変わっていくまでほぼ続く感じだった。最もド新任だった私は仕事に飢えていて,隊長から「お前,原調やれ。」と飛ばされた冗談に本気で喜び,ほとんどその気になったりもした。


 平常時の業務では,2人で就いた本署受付の深夜勤務で,代わる代わる先輩からいろんな経験談を聴かせてもらい,非番の日もプライベートに至るまで世話になった。今,再任用制度などのお蔭で,当時の先輩と再び一緒に勤務できたりするのは,100人の味方を得たようでとても嬉しいが,当時の受付での話は眠くて実にならず,「府民の消防賞」ならぬ「不眠の消防士」状態であった。先輩と二人,個室でゆっくりと話ができた受付勤務の時間は,本当はとても貴重な時間だったのかもしれないと,今にして強く思っている。

 壬生の大火から1年半後,私は予防課に配置となり,ここでもまた先輩上司に一から付きっきりの世話になっての日々が続き,いつまで経っても新任を抜け切れなかった。

 その頃の予防課は,少年消防クラブの指導も大変過熱していたが,旅館・ホテル等の表示事務は予防課の最も重要な業務の一つであった。表示査察には,建築関係を含む予防全般の知識が求められ,査察結果の審査表の作成は予防課の新任にとってはかなり荷の重い作業であったが,同時に大変勉強になリ,予防業務について深く広く知識や興味を持つことができたのも,まさにこのお蔭であるとも思う。


 昨年からまた,旅館・ホテル等の防火基準表示制度が復活し,新たな形でスタートしたが,審査には以前よりもっと幅広い法令知識等が求められる。昔に比べると,最近,予防課勤務を希望する職員が減ってきているようだが,違反是正指導などを進めるに当たっての消防法令解釈やその運用などの予防業務の醍醐味を,若いうちに一度は経験してほしいものである。

 そして,あの壬生の大火からは35年,またあのメンバーから,時の苦労話を聞かされるもう一つの非常召集が掛かる頃かも………。


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