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京都市消防局

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平成27年6月号 あの日あの頃

ページ番号182594

2015年6月1日


 私は,トイレットペーパーの争奪戦や狂乱物価が落ち着いた頃の昭和50年4月に消防学校に入校,同年7月末に卒業し,北消防署に配属されました。

 当時の勤務体系は,二部制で6当務を勤務した後,7当務目が休日という勤務サイクルであり,休みなく出勤していたように思います。

 北消防署の第1消防隊,第2消防隊は休日要員を含め,7名から8名が配置され,新任は消防車のキャビン(ドア無し)に乗ることはなく,出動及び調査出隊時は後部荷台の立席に乗るのが常でした。

 初出動の火災は,指令場所を聞いても初めて聞く地名で,場所もわからないまま,同期生(当時は1署に6名から10名が配属されていました。)と消防車の立席に乗り,黒煙が上がっているのを見て武者震いをし,現場に着いても興奮して先輩に言われるまま,伝令に走ったことを覚えています。

 半年後に後輩が入ってきましたが,この頃から社会は高度経済成長時代から安定期に移り,民間の求人数が減ったことから公務員の人気が上がり,入ってくる後輩は全て年上という状態が数年続きました。

 北消防署には望楼があり,受付での勤務後,引き続き,この望楼に上がって双眼鏡で火災の発生を警戒していましたが,公衆電話が普及し,望楼から火災を発見することは少なく,火災指令後の望見状況を指令センターに報告することが主な業務になっており,何度か火災を発見した先輩もおられました。新任時代は,少しでも煙が上がるのを見れば緊張し,双眼鏡でその場所を見続けていました。下京消防署にも同様に望楼があり,「下京消防署より先に火災を発見する!」との気概で,先輩共々,中京区,上京区,そして東山連峰の山火事には特に気を付けていた記憶があります。

 また,当時の給与は現金支給で,給料の支給日と手当ての支給日がそれぞれあり,支給日が非直のときは支給されるまで,署の近くの喫茶店で朝食を兼ねて上司,先輩たちと一同に集まり,自分のプライベートのことなどを話したり,コミュニケーションが図れる環境が整っていたように思います。

 このときの直属の係長,隊長で忘れられない方がおられました。いずれの方も人情味に長け,隊員やその家族のことまで,常に気に掛けてくださいました。今,自分が隊の編成を担当する立場になりましたが,常に,隊員や隊員が家族を思いやる気持ちを十分に理解して,できる限りの配慮を忘れないよう,心掛けています。

 北消防署に配属されてから十数年後,消防隊員として四条消防出張所で勤務していた頃に勤務体系が二部制から三部制に変わり,同時に,私は四条消防出張所の救急隊に任命されました。まだ,救急救命士制度ができて間もない頃で,下京消防署の救急隊が高規格救急車を運用しているのみで,若干の救急課程の教育を受けただけで救急隊長として乗り組んでいる隊もあり,私もその一人でした。

 四条消防出張所の救急隊は,当時も出動件数が市内で最も多く,救急の内容も多様で,様々な現場経験をしました。救急隊として習得した知識,技術がすぐ現場で生かされることが多く,ここで救急業務の楽しさを知りました。そして,30代の男性の突然死の現場で自分自身では十分な処置ができなかったことの後悔から,救急救命士の資格取得を目標にし,4年後に資格を取得しました。その後,伏見消防署,山科消防署,勧修寺消防出張所の救急隊で勤務しました。

 救急隊のとき,自宅での出産に立会い,さい帯を切ったことから,後日,搬送先の病院に赴き,出生証明書に署名をしたことや,身体の不自由な方が心肺停止の傷病者に心肺蘇生をして,その後,社会復帰された現場,交通事故で心肺停止となった傷病者に,隊員が素早く路上で除細動をして社会復帰された現場等,この原稿を記していると,つい最近のことのように思い出してきます。



 新任時代は自信喪失に陥り,何度も辞めようと思ったときや現場の状況判断が甘く周囲に迷惑を掛けたとき,温かく見守ってくださった先輩や声を掛けてくれた良き同僚がいたお陰で,41年間もの消防生活を過ごすことができました。側で見守っていてくれた先輩そして同僚に,この紙面を借りてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。


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電話:075-682-0119

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