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こども情報館(みてみよう歴史)

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2011年3月18日


みてみよう歴史
京都のまちはよく「歴史都市(れきしとし)」といわれるね
平安京ができてから1200年以上もの長い歴史があるんだよ。きょうとの歴史をちょっとのぞいてみようよ

 

~平安京(へいあんきょう)の誕生(たんじょう)から京都市(きょうとし)ができるまで~

 

平安京(へいあんきょう)ができた!
平安京地図

延暦(えんりゃく)13年(794年),唐(とう)(中国)の都(みやこ),長安(ちょうあん)をお手本に,京都(きょうと)に平安京(へいあんきょう)が造(つく)られました。東西に約(やく)4.5キロメートル,南北に約(やく)5.2キロメートルの長方形で,政治(せいじ)を行う役所(やくしょ)(大内裏(だいだいり))が置(お)かれ,その中心に天皇(てんのう)の住(す)まい(内裏(だいり))がありました。そこから南の玄関口(げんかんぐち)となる羅城門(らじょうもん)まで,まっすぐ朱雀大路(すざくおおじ)(今の千本通(せんぼんどおり)にあたります)が通されました。

まちは,ごばんの目のように計画的(けいかくてき)に造(つく)られましたが,右京(うきょう)はしめった土地が多く,人が住(す)みにくかったので,人々(ひとびと)は左京(さきょう)に移(うつ)っていきました。そのため,京都(きょうと)の東側(ひがしがわ)の発展(はってん)が進(すす)んでいきました。

 

東が左京,西が右京となっているのは,内裏(天皇の住まい)から南にみて,右側を右京,左側を左京と呼んだからなんだよ。

 

平安時代(へいあんじだい)の京都(きょうと)
~貴族(きぞく)と武士(ぶし)~

平安時代(へいあんじだい)に大きな力を持(も)ったのは,藤原氏(ふじわらし)という貴族(きぞく)でした。むすめたちを天皇(てんのう)と結婚(けっこん)させて,天皇(てんのう)と親戚関係(しんせきかんけい)になったのです。藤原氏(ふじわらし)は,天皇(てんのう)を助(たす)けて政治(せいじ)を行う「摂政(せっしょう)」や「関白(かんぱく)」という地位(ちい)にのぼり,力をのばしていきました。

平安時代(へいあんじだい)の末期(まっき)には,貴族(きぞく)よりも武士(ぶし)の力が強くなり,平氏(へいし)が力をのばしていきました。平清盛(たいらのきよもり)の時代(じだい)にいちばん大きな力を持(も)ちましたが,清盛(きよもり)が死(し)んだ後,平氏(へいし)は源氏(げんじ)に破(やぶ)れ,源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉幕府(かまくらばくふ)を開(ひら)きました。

 

平安時代(へいあんじだい)の貴族(きぞく)
平安時代は,紫式部の「源氏物語」や,清少納言の「枕草子」など,女性の書いた文学が残された時代でもあるんだよ。

 

室町時代(むろまちじだい)の京都(きょうと)
~にぎわいと応仁(おうにん)の乱(らん)~

応仁の乱が始まった地を示す石碑


鎌倉幕府(かまくらばくふ)が足利尊氏(あしかがたかうじ)にほろぼされた後,室町幕府(むろまちばくふ)が開(ひら)かれ,将軍(しょうぐん)は京都(きょうと)に幕府(ばくふ)をおきました。

この時代(じだい)に造(つく)られた金閣寺(きんかくじ)はごうかな北山文化(きたやまぶんか)を代表(だいひょう)し,銀閣寺(ぎんかくじ)は質素(しっそ)で味(あじ)わい深(ぶか)い東山文化(ひがしやまぶんか)を代表(だいひょう)する建物(たてもの)です。

また,京都(きょうと)のまちが,上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)に分かれました。上京(かみぎょう)には,内裏(だいり)(天皇(てんのう)の住(す)まい))や幕府(ばくふ)があり,下京(しもぎょう)には,商工業者(しょうこうぎょうしゃ)(商売(しょうばい)をしたり,ものを作ったりする人)が中心にまちを作っていきました。

応仁(おうにん)元年(1467年),室町幕府(むろまちばくふ)の将軍(しょうぐん)のあとつぎ争(あら)そいから,応仁(おうにん)の乱(らん)が起(お)こりました。これは,京都(きょうと)のまちの大部分(だいぶぶん)を焼(や)け野原(のはら)にしてしまう大きな戦(たたか)いで,11年も続(つづ)きました。

西陣織で有名な「西陣」という地名は,応仁の乱のとき,山名宗全が率いる西軍が陣を置いたことが始まりだよ。

 

秀吉(ひでよし)の「京都(きょうと)・大改造(だいかいぞう)」

御土居


室町幕府(むろまちばくふ)の力が弱まると,たくさんの武将(ぶしょう)が領土(りょうど)を広げようと争(あらそ)いました。天下統一(てんかとういつ)まであと一歩のところで,織田信長(おだのぶなが)が明智光秀(あけちみつひで)の裏切(うらぎ)りにあって自害(じがい)した後,豊臣秀吉(とよとみひでよし)が,天下を統一(とういつ)しました。

秀吉(ひでよし)は,金ぱくでおおわれた「聚楽第(じゅらくだい)」というごうかな建物(たてもの)や伏見城(ふしみじょう)を建(た)てました。


また,東は鴨川(かもがわ),西は紙屋川(かみやがわ),北は鷹峯(たかがみね),南は九条(くじょう)にいたる長さ約(やく)23キロメートルにおよぶ土るい(土を盛(も)り上げたもの)でまちを囲(かこ)みました。これは「御土居(おどい)」といい,京都(きょうと)のまちを,外からのこうげきや洪水(こうずい)から守(まも)るためのものでした。

「寺之内通」や「寺町通」は,秀吉が京都にあるお寺をここに集めたことからそう呼ばれるんだよ

 

平和(へいわ)な江戸時代(えどじだい)とゆれた幕末(ばくまつ)の京都(きょうと)

高瀬川一之船入


慶長(けいちょう)5年(1600年)の関が原(せきがはら)の戦(たたか)いで勝(か)った徳川家康(とくがわいえやす)が,江戸幕府(えどばくふ)を開(ひら)きました。江戸時代(えどじだい)の京都(きょうと)は,政治的(せいじてき)には平和(へいわ)な世(よ)の中でした。商人(しょうにん)・角倉了以(すみのくらりょうい)が,大堰川(おおいがわ)(桂川(かつらがわ))や高瀬川(たかせがわ)を切りひらいたため,船を使(つか)って物(もの)の行き来が活発(かっぱつ)になり,経済(けいざい)が発展(はってん)しました。

しかし幕末(ばくまつ)(=江戸幕府(えどばくふ)の末期(まっき))には,佐幕派(さばくは)(幕府(ばくふ)を守(まも)る考えの人たち)と尊王派(そんのうは)(天皇(てんのう)中心の政治(せいじ)を目指(めざ)す人たち)が対立(たいりつ)しました。

そして慶応(けいおう)3年(1867年),幕府(ばくふ)が国を治(おさ)める権利(けんり)を朝廷(ちょうてい)へ返(かえ)すことになりました(これを大政奉還(たいせいほうかん)といいます)。

 

都(みやこ)が東京へ。
そして始(はじ)まった近代化(きんだいか)

新政府軍(しんせいふぐん)と旧幕府軍(きゅうばくふぐん)が,京都(きょうと)の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で激(はげ)しく戦(たたか)い,新政府軍(しんせいふぐん)が勝(か)ち,明治(めいじ)2年(1869年),日本の都(みやこ)が,京都(きょうと)から東京に移(うつ)されました。京都(きょうと)のまちがさびしくなることを心配(しんぱい)した人たちは,活気を取(と)りもどすために,次々(つぎつぎ)と近代化(きんだいか)を進(すす)めました。

琵琶湖(びわこ)の水を京都(きょうと)に引く疏水工事(そすいこうじ)もそのひとつです。21歳(さい)の田辺朔郎(たなべさくろう)が,多くの困難(こんなん)を乗(の)りこえ,実現(じつげん)させました。おかげで豊(ゆた)かな水がもたらされ,水力電力が可能(かのう)になり,日本初(はつ)の路面(ろめん)電車が実現(じつげん)しました。

このほか,外国の技術(ぎじゅつ)を取(と)り入れたり,全国(ぜんこく)に先がけて小学校を作ったりしました。

 

このときに,平安神宮が造られたり,時代祭が始められたんだよ。
  • 南禅寺の水路閣
  • 日本初の路面電車

 

京都市(きょうとし)が誕生(たんじょう)!

明治(めいじ)22年(1889年)に,国が全国(ぜんこく)に39の「市」を作ることを決(き)め,「京都市(きょうとし)」が誕生(たんじょう)しました。はじめは,京都府知事(きょうとふちじ)が京都市長(きょうとしちょう)の仕事(しごと)をしていましたが,自分たちの手で京都(きょうと)のまちを支(ささ)えていきたいと思った人々(ひとびと)が,国に強く働(はたら)きかけました。そして,明治(めいじ)31年(1898年),市民(しみん)によって新しい京都市長(きょうとしちょう)が選(えら)ばれ,市役所(しやくしょ)ができたのです。

 

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