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京都市上京区

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思いっきり上京 地名・町名の由来

ページ番号50659

2013年5月21日

乾隆学区 洛中絵図に残る町名

○花車(はなくるま)町

 町名は寛永14年(1637)洛中絵図に「花車丁」とあり、以後、町名及び町域は変わらない。町名は応永年中(1394-1428)に、将軍足利義満の輿車がこの地で破損し、その輿車を当町に下付されたことによるといい、車輪だけが大報恩寺に保存されている。

○作庵(さくあん)町

 町の中央を南北に千本通、南寄りを東西に上立売通が通る。寛永14年洛中絵図に「作庵丁」とあり、以後町名の変化はない。町名は、天正年中(1573-92)当町に居住した医師作庵によるという。作庵は風雅を好み、「祖母懐(うばがふところ)」印の楽焼の陶器は世に知られたという。石像(しゃくぞう)寺境内に墓がある。

○牡丹鉾(ぼたんぼこ)町

 寛永14年洛中絵図に「西五辻大下丁」としてあり、寛文5年(1665)刊「京雀」では「五辻大下町」、宝暦12年(1762)刊「京町鑑(きょうまちかがみ)」には「大下之町」、慶応4年(1868)改正 京町御絵図細見大成(きょうまちおんえずさいけんたいせい)では「大下丁」とある。現町名の成立は明治2年(1869)で、毎年5月の今宮神社(現北区)祭礼に牡丹の剣鉾を出したことによるという。(成瀨日出夫)

 

参考『京都市の地名』

 

西陣学区 寺院のある町

 西陣学区は寺之内通が東西に貫いているためか、寺院の名を付けた町名(曼陀羅(まんだら)町、芝薬師(しばやくし)町、慈眼庵(じげんあん)町、花開院(けいかいん)町等)が多い。その中から、町名と同じ名を持つ現存の寺院を紹介してみたい。

○百々(どど)町(寺之内通堀川東入)

 宝鏡寺は、代々皇族の子女が入られた由緒ある尼門跡寺院で、百々御所と呼ばれ、人形寺としても有名。町の東端にかつて小川が流れ、百々橋という石橋が架かっていた。応仁の乱では、橋を隔てて東軍と西軍が対峙した。昭和38年に小川は埋め立てられたが、橋脚を支える礎石の一部が残され往時を偲ばせている。

○妙蓮寺前(みょうれんじまえ)町(寺之内通大宮東入)

 妙蓮寺は本門法華宗の大本山。天正年間、秀吉の都市改造計画でこの地に移築。長谷川等伯の障壁画や枯山水の庭が有名。墓地には昭和9年の室戸台風で犠牲になった西陣小学校生徒41名の供養塔がある。

○聖天(しょうてん)町(寺之内通大宮西入二筋目下る)

 「西陣の聖天さん」雨宝院がある。天正年間、秀吉によってこの地に移転されたが、弘仁12年(821)空海が開くと伝えられる真言宗の寺。境内には染物がよく染まるという染殿の井、八重の花で有名な歓喜桜や時雨の松があって訪れる人を楽しませている。(髙橋孝三)

 

20年11月号