琵琶湖疏水前史 3

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2010年2月23日

  北垣国道(くにみち)第3代京都府知事の出身地,兵庫県養父(やぶ)町(現在の養父市)からいただいた山茶花(さざんか)が,琵琶湖疏水記念館の前庭に咲き誇り,鮮やかな緑の葉と紅淡色の花がコントラストを楽しませてくれます。

記念館に咲く山茶花

※記念館の山茶花(平成22年2月3日現在)

 山茶花の花言葉には,「困難に打ち勝つ」,「ひたむきさ」と言った意味がありますが,厳しい冬の最中に咲くためでしょうか,山茶花のふっくらとした蕾(つぼみ)が顔を出してから開花までに3~4週間かかっています。
 明治18(1885)年8月に工事を開始した琵琶湖疏水は,機械技術が未発達な時代に,ほとんど人力で工事を行い,多くの人々に完成を危ぶまれた難工事でした。しかし,多くの人々の努力により様々な困難を克服し, 4年8箇月の年月をかけて明治23(1890)年4月完成しました。
 その琵琶湖疏水は今年でちょうど竣工120周年になりますが,その豊かな流れは今でも,京都市民への命の水の供給や水力発電などに使われているだけでなく,京都の風土に溶け込んで人々の生活に潤いを与えてくれています。

   さて,前回に引き続き,今回も疏水前史について,お話しようと思います。
今回は,天保12(1841)年,京都の壬生(みぶ)の百姓彦助らが京都町奉行所に願い出た際の琵琶湖疏水の計画です。

 この計画は,次のようなものでした。
1 尾花川の入江の熊野橋付近から幅7.3mの水路を三井寺の北の山裾(やますそ)に沿って新羅(しんら)山まで掘り進め,そこから182mのトンネルで藤尾社(藤尾神社)の東の谷に出て藤尾川を下り,山科盆地北部の山麓(さんろく)を四宮(四ノ宮/しのみや)村から御陵(みささぎ)村まで91mのトンネルで開削する。御陵から南禅寺前に出て,白川を利用して鴨川につなげる。
2 鴨川の東岸に沿って七条まで新しい水路を開削する。
3 山科の安祥寺川で分かれて安祥寺川を六地蔵まで浚渫(しゅんせつ)する。
この開削により,これまで山道のため困難であった京都から大津間の物資輸送が促進されて京都市内の物価が安くなり,山科地域の灌漑(かんがい)用水にも役立ことが期待されました。
 この開削ルートは現在の第1疏水のルートによく似ており,トンネルも短く実現できそうに思えますが,実際のところ,藤尾のトンネル付近では水位が琵琶湖よりもはるかに高く,実現するのは不可能でした。

 

写真(「琵琶湖疏水願書附図」)

※写真(「琵琶湖疏水願書附図」)
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