琵琶湖疏水前史 2

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2017年1月10日

 昨年は,リニューアルのため長期間休館し,皆様方に多大なるご迷惑をおかけして申し訳有りませんでした。お蔭様で,施設の補修と展示の充実を図ることができ,再開後の来館者数も前年より増加し,新年を迎えることとなりました。改めまして,お詫びとお礼を申し上げます。
 また,当館では特別展「琵琶湖疏水の風景」を2月9日(火曜日)から2月28日(日曜日)まで開催しますのでぜひお越しください。

 さて,今年も琵琶湖疏水記念館の前庭の山茶花(さざんか)の赤い花が咲き始めました。この山茶花は,平成10年に北垣国道(きたがきくにみち)の出身地,兵庫県養父(やぶ)町(現在の養父市)からいただいた苗が育ったものです。比叡おろしや愛宕(あたご)おろしの吹きすさぶ厳しい冬の最中に咲く赤い花々は,100年後の京都を夢見て琵琶湖疏水を建設した北垣知事の熱い情熱を伝えて,心のぬくもりを感じさせてくれます。記念館に来られましたら,ぜひご覧ください。 

記念館に咲く山茶花

 前回に引き続き,今回も疏水前史について,お話しようと思います。

 琵琶湖疏水に関連する最古の資料といえば,慶長19年(1614年)9月,幕府の儒官・林羅山(はやしらざん)から角倉了以(すみのくらりょうい)の長男素庵(通称・与一)に宛てた手紙です。この手紙には,「瀬田川,宇治川を開削して,瀬田から宇治までの舟運を開く角倉家の計画を徳川家康(とくがわいえやす)に言上した。うまく舟が上下できれば申し分ないが,もしできなくても湖水の低下で6~7万石の良田ができる。湖水が2~3尺(6~90センチ)も下がれば,近江で20万石も新田開拓が可能になるので,家康は上機嫌であった。」というものです。
 北国などからの荷物を琵琶湖,瀬田川,宇治川を経て伏見から高瀬川を遡(さかのぼ)って舟で京都へ運ぼうという壮大なアイデアでした。大堰川(おおいがわ),高瀬川を開削した角倉家の財力,技術力なら実現可能であったと思えますが,この手紙が到達する2箇月前に角倉了以が亡くなっていたためでしょうか,あるいは,下流大阪の浸水や,湖岸の膳所城(ぜぜじょう)などの水位低下を恐れたのでしょうか,なぜかその後の記録や形跡は残っておりません。もしも,この計画が実現されていたら,果たして,現在の琵琶湖疏水は,建設されていたでしょうか。そして京都市民の命の水,水道の原水を確保できていたでしょうか。(京都市の水道水の96%は,琵琶湖疏水の水です。)
 琵琶湖と京都を直接結ぶ運河計画で最も古いとされるのは,文政12年(1829年)の絵図です。「此図者三拾年以前(このずはさんじゅうねんいぜん),江州(ごうしゅう)より山城白川橋迄切抜(やましろしらかわばしまできりぬき),通船目論見之砌(つうせんもくろみのみぎり),数通相認候控絵図也(すうつうあいしたためそうろうひかええずなり)」と記入され,矢野惟直(やのこれなお)の署名がありました。したがって寛政12年(1800)年頃から計画されていたことがうかがわれます。

江州山城白川橋間切抜通船目論見控絵図

江州山城白川橋間切抜通船目論見控絵図

 図面によると尾花川(第2疏水取水口から北へ約500m)から取水し山上(やまがみ)村まで掘割で通じ,そこから如意ケ嶽(にょいがだけ)の下を4.5kmのトンネルで霊鑑寺(れいかんじ)の奥の如意滝(にょいだき)(別名・楼門(ろうもん)の滝)の下流付近に出て桜谷(さくらだに)川,白川を経て現在の京都市勧業館(みやこめっせ)の西側付近に舟入を設けています。この地図は,平面図としては良くできていますが,高低測量ができておらず,また,当時はトンネルを掘る能力もなく,能力が有ったとしても,地図から判断するとトンネルの出口が琵琶湖の水面より約100mも高く,実現は不可能でした。

(参考)
 琵琶湖疏水の位置関係を示す地図の必要な方は「京都一周トレイル 東山」が便利です。これには,如意滝が楼門の滝として表示され,写真も掲載されています。

 

 

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