琵琶湖疏水前史 1

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2009年12月28日

 12月も半ばを過ぎて,南禅寺周辺の紅葉もほとんど散ってしまいましたが,わずかに残った紅葉が訪れた人の心を和ませてくれます。

 今回から3回に分けて,一般的には,あまり知られていない,最古の疏水計画について,お話しようかと思います。

琵琶湖疏水記念館外観

(琵琶湖疏水記念館外観)

 琵琶湖疏水は,皆さんご存知のとおり,明治2年(1868年)の東京奠都(てんと:新たに都を定めること)で急激に寂れた京都を復興しようと明治18年(1885年)6月に着工して,明治23年(1890年)4月に完成した運河です。

 しかし,このような計画は,古くからありました。

 例えば,鴨川のほとりにあった頼山陽(らいさんよう:江戸時代後期の歴史家,文人 1780~1832)の書斎は,「山紫水明(さんしすいめい)のところ」と名付けられ,京都は水に恵まれていたように思えますが,実はそうではなかったようです。その証拠に,平安時代,白河法皇(しらかわほうおう)は,「賽(さい:さいころ)の目,叡山の山法師,鴨川の水」の3つが自分の意のままにならぬものとして嘆いたように,当時から鴨川の水量は,普段は少なく日照りが続くとすぐに干上がるのに,いったん大雨が降るとすぐに氾濫して,住民を苦しめたのです。平清盛も,豊かな琵琶湖の水を近江塩津から日本海の敦賀へ,さらに,大津から京都へ引いて舟運や灌漑(かんがい)に役立てようとしたと言われています。滋賀県伊香郡西浅井町沓掛にある深坂(ふかさか)地蔵は,平清盛が,わが子重盛に命じて湖北の塩津から敦賀へ疏水を掘り始め,途中の深坂峠で地蔵さんの姿の岩石に突き当たり工事を中止し,その岩をお地蔵様として,おまつりしたと伝えられ,「掘り止め地蔵」とも呼ばれています。

 

琵琶湖北部の図

(琵琶湖北部の図/「琵琶湖疏水の100年<叙述編>」から)

 また,豊臣秀吉も,敦賀城主大谷吉継(よしつぐ)と大谷吉隆(よしたか)に命じ,同じく西浅井町大浦から敦賀へ疏水を掘り進め,これも大岩石にぶつかって工事をあきらめたと伝えられ,湖西線永原駅(こせいせんながはらえき)のそばを流れる大浦川は,「太閤(たいこう)のけつわり堀」とも呼ばれています。

(次回へ続く・・・)

 

 

蹴上インクライン

(琵琶湖疏水記念館付近の風景/蹴上インクライン)

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