京都おもしろ情報
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2019年7月9日
京都発日本初
京都発 日本初 1 市民の支えで誕生した近代小学校 1869年(明治2年)
1869年5月21日,近代小学校として日本初の開校式が,上京第二十七番組小学校(後の柳池(りゅうち)小)で行われた。
当時の京都には,上京・下京のそれぞれに番組(学区)という行政区画が置かれ,番組ごとに小学校が創設されたので,番組小学校と呼ばれた。
これらは,町衆による小学校創設構想に端を発したもので,私財を投じて柳池小に校舎や敷地を寄付した熊谷直孝(くまがいなおたか)を初め,多くの寄付や献金が,町衆の向学の気風をさらに高めた。その結果,地域が一丸となって学校の建設が進められたのである。こうして,全64の番組小学校は,国が学制を定める3年も前に,その精神を先取りして開校した。
柳池小は,戦後の新学制によって,柳池中となった。正門横の「日本最初の小学校」と記された石碑は,町衆の教育にかける熱意を今に伝えている。
京都発 日本初 2 芸術家の卵を育てた画学校の設立 1880年(明治13年)
1880年,画家たちによる美術学校設立の要望が実り,日本初の公立画学校,京都府画学校が京都御苑内に設立された。画学校は,後に府から市に移管。さらに,工芸や彫刻などの学科増設といった規模の拡大に伴い,校名をたびたび変更。1909年には,卒業生の上級学校である絵画専門学校を併設した。
画学校の流れは,現在の市立銅駝(どうだ)美術工芸高校に続いている。専門学校は,戦後,市立美術大学になり,1969年,市立音楽短大を統合,市立芸術大学と改称して,現在に至る。両校は,画学校創立以来,北村西望(きたむらせいほう)や堂本印象(どうもといんしょう),上村松篁(うえむらしょうこう)といった文化勲章受章者を初め,芸術界や産業界に多くの人材を輩出している。
今,二つの学び舎では,芸術家の卵たちが,新たな芸術文化を創造しようと情熱を燃やしている。
京都発 日本初 3 疏水(そすい)計画に追加された水力発電所の完成 1891年(明治24年)
1891年,蹴上(けあげ)発電所が完成し,送電を開始した。これは,商業用としては日本で初めての水力発電事業であった。
京都の近代化を進めた空前の大事業,琵琶湖疏水。これは琵琶湖から京都まで新たに水路を作るというもので,当時の日本の技術力では無謀といわれた事業であった。この設計と工事を指揮したのは,工部大学校(現在の東大工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎(たなべさくろう)。疏水工事中の1888年,アメリカ・コロラド州に世界初の水力発電所が開業した記事を目にした田辺は,渡米してその知識を持ち帰り,水力発電所の建設を疏水計画に追加したのである。
若き田辺の才能や多くの人々の努力で完成した水力発電所は,京都の産業発展の原動力となった。そして,100年以上の時を経た今も,現役で働き続けているのである。
京都発 日本初 4 チンチン電車,出発! 1895年(明治28年)
1895年2月1日,日本初の市街電車が,東洞院塩小路から約6km南の伏見油掛通へ走り出した。京都電気鉄道株式会社(京電)の経営によるこの電車は,出発の合図の音からチンチン電車と呼ばれ,親しまれた。
当時,乗降はどこでも自由。また,開業後間もなく,京電独特の告知人が登場。少年たちが,人の多い場所になると電車から降りて,「電車が来まっせえ」などと危険を知らせていたとか。
当初の伏見線以外にも路線を次々開業した京電に,強力なライバルが現れた。1912年,道路拡幅など総合交通体系の整備に合わせて,市電が開業したのである。京電は経営努力を重ねたが,6年間の競合の末,結局市電に買収された。
その市電も1978年に全線廃止。現在は地下鉄烏丸線・東西線や市バスなどにその役目が引き継がれている。
京都発 日本初 5 失敗を重ねた末に成功した映画上映 1897年(明治30年)
現在の映画機器の原型となったシネマトグラフ(撮影・焼付・映写を行う機械)は,フランスのリュミエール兄弟が発明した。実業家稲畑勝太郎(いなばたかつたろう)は,フランスから日本にこのシネマトグラフを持ち帰った。
稲畑は,若い頃留学しており,リュミエール兄弟の兄と留学先の学校で同級生であった。この縁で,日本での興行権を得たのである。
帰国した稲畑は,早速試写実験をしたが,電流の程度が分からず失敗の連続。やっと上映できたのが1897年1月から2月にかけてのこと。これが日本初の映画上映であった。光源のランプの熱による火事の恐れもあり,屋外で上映したが,その場所は元立誠(りっせい)小学校の学区内であった。
以後,日本映画の中心地として栄える京都では,映画上映100周年を記念し,京都映画祭が創設されるなど,新たな映画文化を発信している。
京都発 日本初 6 3日間にわたる駅伝競走 1917年(大正6年)
1917年4月27日,肩にたすきを掛けた2人の選手が,京都・三条大橋から,東京・上野不忍池に向かって走り出した。これは,日本最初の駅伝競走で,東軍・西軍の2チームが,514km・23区間を3日間,昼夜にわたり走り続ける大レースであった。 この歴史的スタートには,1人の同志社大学生も加わり,両選手の応援のために,草津まで伴走したとか。また,当時,木曽川など大きい川には橋がなく,なんと選手は渡し船を使った。東軍13区の選手がアキレス腱を切り,その棄権地点から14区の選手が2区間分・約42km走るハプニングもあったが,東軍の優勝で幕を閉じた。
現在京都では,全国高等学校駅伝や全国都道府県対抗女子駅伝などが冬の風物詩として毎年開催されており,都大路を力走する選手たちに温かい声援が贈られている。
京都発 日本初 7 他都市の見本となった中央卸売市場 1927年(昭和2年)
1927年,鮮魚等を扱う京都市中央卸売市場は,日本初の中央卸売市場として開業。多くの難題を乗り越えてのオープンであった。
日本初であるために,用地選定から施設設計,経営のノウハウまで,すべて1からのスタート。とりわけ,関係者が頭を悩ませたのは,貨車の引込線を含めた建物の配置であった。慎重に検討した結果,商品を乗せた貨車の到着場所から荷卸場,水産・青果物などの卸売場,倉庫などが商品の流れに合わせて機能的につながる優れた配置となった。そのため,後の東京・築地市場などのような大都市市場の建設の際,モデルケースとされたほどである。
京都市中央卸売市場は,1969年に食肉専門の第二市場を新たに開設。従来の第一市場と合わせ,市民の台所として,数々の食材を供給している。
京都発 日本初 8 自治体直営オーケストラの創設 1956年(昭和31年)
京都は昔から西洋音楽が盛んな地。地方自治体が高校に音楽課程を設けたり,音楽短大を設置したのも,全国初であった。
そんな土壌のある京都に,1956年,日本初の自治体直営オーケストラ・京都市交響楽団(京響)が誕生。6月18日,先斗町歌舞練場での披露演奏会では,設立に関わった人々が涙して聴き入ったとか。第1回定期演奏会は,翌19日,円山公園野外音楽堂で開催。4500人以上の音楽ファンが詰め掛け,入りきれない人が,通路に座り,木によじ登って聴くほどであった。翌日の新聞各紙は初演奏を絶賛。京響は歴史的第一歩を踏み出したのである。
48名の団員で始まった京響は,今,京都コンサートホールを本拠地に,倍近い87名が活躍。海外公演でも高い評価を受け,国際的な活躍を続けている。
京都発 日本初 9 コンベンションシティ・京都の顔が誕生 1966年(昭和41年)
1966年5月21日,宝ヶ池に日本最初の国立国際会議場として,国立京都国際会館が開館した。「日本に一流の国際会議場を」との政府首脳の構想から,9年後であった。
構想段階から,建設地は京都近辺との意向が示され,多くの候補地が名乗りを挙げた。その中で,宝ヶ池の決め手となったのは,日本の歴史と文化を示す京都市内にあるということと,宝ヶ池の自然の美しさであった。
建物は,これも日本初の公開設計競技方式により,応募195作品から選ばれた大谷幸夫氏の設計で建築された。
こけら落としとなったのは,「第5回日米貿易経済合同委員会」。以来,1997年12月の「地球温暖化防止京都会議」など,コンベンションシティ・京都の中核施設として,様々な分野の国際会議が行われている。
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