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京都市消防局

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平成29年2月号 あの日あの頃

ページ番号213286

2017年2月1日


 平成23年3月11日14時46分,防災危機管理室に所属していた私は,出張で神戸元町の兵庫県公館にいた。人と防災未来センター主催で,阪神・淡路大震災以降の震災復興研究の成果を披露する「スーパー広域災害『東南海・南海地震』対策シンポジウム」に参加し,災害時のロジスティックに関する研究発表を聴いているときだった。プレゼンテーションを映し出す大きなスクリーンがゆっくりと左右に揺れていることに気が付いた。見上げると,シャンデリアも揺れている。どこからか風が吹き込んでいるのかと思っていると,会場のあちこちで携帯電話が鳴り始めた。会場にいるのは,地震研究の専門家や防災行政の担当者,災害医療の関係者などである。共に参加していた京都府の防災担当者が「東北地方で大きな地震が発生したみたいです。私たちは先に帰ります。」と耳打ちして去っていった。「東北で地震?なんでここまで揺れるの?」言い知れぬ不安を感じた。やがて,異様な雰囲気に戸惑いながらも発表を続けていた若い研究員を押しのけて,シンポジウムの主催者,河田惠昭教授が,大地震の発生を告げ,会の中止を宣言した。スーパー広域災害に備えるシンポジウムの最中に巨大地震が発生するなんて,悪い冗談としか思えなかった。

 京都に戻る電車内で,携帯ラジオに耳を傾ける。日常の風景の中で,津波がまちを襲う様子を伝えるアナウンサーの悲痛な叫びを聴いていると,悲しみと悔しさの入り混じった感情に揺さぶられ,涙があふれてくる。日没近くに職場へ帰着し,改めて災害の様子をテレビで見た。現実とは思えぬ光景に言葉を失った。

 その日から,支援対策本部のスタッフとしての過酷な日々が始まった。昼夜の別なく開催される対策会議,各局の派遣対策を取りまとめ,派遣職員の調整をする。救援物資を調達し,輸送手段を確保して,派遣部隊を送り出す。また,被災者の受け入れを調整し,生活情報の提供を行う。業務に追い立てられて,家に帰れない日々が何週間も続いた。溜まっていくストレスで人間関係もささくれ立ち,些細な行き違いから争いが起き,職場に怒号が飛び交う。一方で,従来の防災対策の抜本的な見直しを迫られ,そのためのスキームを組み立てる。「どうする。さあ,どうする。」絶え間なく投げ掛けられる問いに,答えを求めて奔走する日々が続いた。

 支援業務が軌道に乗った4月末,人を送り出すばかりではなく,自分の目で見たいというフラストレーションを抑えきれなくなり,ボランティアバスで被災地,陸前高田に向かった。阪神・淡路大震災のとき,六甲山中のヘリポートから市街地に向かうバスの中で,徐々に被害が増す風景に言葉を失ったときのように,今回も車窓から見る自然の破壊力に圧倒された。2日がかりで行ったのは,田んぼに積もったがれきの除去作業。50人がかりで田んぼ2枚を片づけるのがやっとだった。そんな非力な我々に,地元の区長さんは涙ながらに感謝の言葉を述べられていた。申し訳ない気持ちで一杯だった。被災地では道路一本隔てて,日常と非日常が同居する。海側の町はことごとく破壊しつくされ,山側の家には何事もなかったかのように洗濯物が干してある。バスから見た奇妙なコントラストが,とても印象に残っている。

 それから3年間,平時には実現できなかったであろう構想を具現化させるため,無我夢中で走り続けた。あのとき,共に奮闘したかつての上司や同僚は,今でもお互いを「戦友」と呼んでいる。振り返ると,雑で中途半端な仕事や積み残しもあるが,防災の中枢で震災や大水害の混乱と苦悩を経験した先達として,道筋をつけてきた自負はある。その道が,幾多の犠牲を払って得た教訓を活かし,正しい方向に伸びていることを願って止まない。

 なお,インターネット上には,あの日中断されたシンポジウムの資料が今でも公開されている。じくじたる思いを共有した参加者にとっての大震災のモニュメントの一つとして。

 【参考】

 (「スーパー広域災害」の応急期における課題の特徴と災害対応のあり方)

  http://www.dri.ne.jp/research/ppt_index外部サイトへリンクします

 


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