左京区は、昭和4年4月1日に上京区から分区して誕生し、平成21年4月1日に80周年を迎えました。
左京区役所では、左京区が培ってきた伝統を受け継ぎ、未来へとつなぐとともに、区民の皆様と区誕生80周年を祝うため、多彩な記念事業を実施しています。
「左京区誕生80周年記念しんぶん」では、左京区の歴史と魅力を皆様とともに振り返り、左京区の更なる発展に向けて次代へ伝えて参ります。
左京区が誕生80周年を迎え、皆様には心からお慶び申し上げます。この左京区が、様々な伝統文化や豊かな自然を守りつつ、目覚しい発展を遂げてまいりましたのは、皆様方の長年にわたるご尽力によるものと深く敬意を表します。
左京区誕生80周年記念事業実行委員会では、区誕生80周年を祝うため、「左京区民煎茶会」を皮切りに「左京区民ふれあいまつり」などのふれあい事業や、左京区シンボルマークの制定など様々な事業を実施しております。事業の実施にあたりましては、多くの方々から格段のご支援とご協力を賜りましたことに、深くお礼申し上げます。
80周年を契機として、左京区の更なる発展と皆様方のご健勝とご多幸を心からお祈りし、ご挨拶とさせていただきます。
左京区誕生80周年記念事業実行委員会委員長
笹岡 勲甫
私は1945年、京都大学に入学し、左京区の親戚の家に下宿した。結婚した直後2年間ほど西陣で間借りしたことがあるが、以後、浄土寺、北白川、若王子と左京区内で生活している。今年84歳であるから、私の人生の4分の3を京都市の左京区で過ごしたことになる。
畏友杉本秀太郎氏の言によれば、市内で純粋な京都といえるのは中京区と下京区のみで、あとは必ずしも京都とはいえず、その住民も多くは外来の民であるという。たしかに杉本氏の言う通りであり、特に大学関係者が多く住む左京区は、私のような外来の京都人には大変住みやすいところである。
私は、生まれは仙台であるが、母が死んだために生後1年8カ月にして子どものなかった伯父夫婦に引き取られ、愛知県知多郡内海町で育った。そして名古屋にある東海中学を経て旧制八高に学んだが、八高時代、大学は東大に行くか京大に行くか迷った。しかし「一代の栄達を図るなら東大、千年の真理を追究するなら京大」と豪語して、京大に入学し、以来ずっと京都に住み続けたが、この選択は正しかったと思う。
東京と違って京都は三方を鬱蒼たる森のある深山に囲まれた古都である。現在私が住んでいる若王子の家には、イノシシ、サル、タヌキ、キツネ、ムササビ、イタチなど多くの野生動物がしばしば姿を現す。京都は山村都市といってよいのではないかと私は思う。
そして京都にはすばらしい歴史的遺産がある。左京区には大原三千院、修学院離宮、銀閣寺、南禅寺など、世界に誇るべき文化的遺産が特に多い。また若王子は、後白河上皇が年々の慣わしにしていた熊野詣ができないときに参拝するために熊野三山の一つに見立てた名所である。
私は西洋哲学を学ぶために京都大学に入学したが、後に日本研究に転向し、「梅原日本学」というものをうち立てた。これも京都、特に左京区に住んだおかげであると思っている。
著者プロフィール
哲学者。京都市名誉市民。
「京都市の地理上の南北の中心はどこだと思いますか?」と問い、「ちなみに南の端は大阪との府境近くの淀です」と付け加えると、たいていの人は「丸太町通」とか「今出川通」と答え、北部に比較的くわしい人なら「北大路通」と答えてくれます。正解は鞍馬小学校がある貴船口あたり。淀から貴船口までと貴船口から京都市北端の久多までの距離はほぼ等しいのです。もちろん貴船口も久多も左京区に属しています。ちなみに左京区の南北の中心は花脊別所と百井を結んだ線のあたりです。左京区は南北にずいぶん長いのです。しかも京都盆地に属する平地も丹波高原に属する山地も含んでいます。左京区は京都の市街地からの距離、多様な地形に応じて、個性的な暮らし方が数多く見られたところでした。
昭和4年に左京区が成立した時には、岡崎などはすでに現在の姿に近くなり、吉田、下鴨は文教地域となり、田中は鐘淵紡績や友禅関係の工場が立ち並ぶところとなっていましたが、その他の地域はなりわいに関して、かつての姿をまだかなり留めていました。たとえば京都に近い白川は花売りで、一乗寺、修学院、松ヶ崎は野菜栽培で有名でした。白川、上高野、八瀬、静原、貴船口、鞍馬では、水を豊富に使うことができたので、水車が精米のみならず、工業的な目的にも使われていました。大原、八瀬、岩倉には山が多く、たきぎを売る人がたくさんいました。花背、百井より北の地域にはもっと多くの山がありましたが、それらの地域は京都から遠く離れており、たきぎを運搬するのが困難でした。そこで大見、尾越、久多、八桝、広河原などは、木を炭にし、木炭の中継地である鞍馬へ運んでいました。木材の運搬は木炭の運搬よりさらに困難でしたから、花背、八桝などの材木は大堰川の筏流しで、そして久多の材木は安曇川の筏流しで運ばれていました。しかし花売りや野菜売りは、その後の都市化、運搬手段の発達によって衰え、たきぎ生産、炭生産、筏流し、水車は暮らしや運搬手段の変化などによって消えてしまいました。
食べ物については、なりわいの場合よりも、昔ながらのものが今なお見られるようです。たとえば北山地域でとれたサンショウと若狭街道を通って運ばれたと思われる昆布を使っていた鞍馬の木ノ芽煮、ナス、トウガラシ、ミョウガ、シソなどを材料とする大原の柴漬は、今なおさかんに作られ、売られています。木ノ芽煮や柴漬とは比べ物になりませんが、食べられ続けているのが納豆餅です。関西の人は納豆嫌いであると言われることがあるので、意外に思われる方もいるかもしれませんが、市原・静原・大原以北では焼いて円形にのばした餅の中央に塩あるいは砂糖で練った納豆を入れて編笠のような形に閉じた納豆餅が食べられています。しかも右京区京北、南丹市美山町、八木町神吉、左京区静原などでは雑煮代わりに納豆餅が食べられているところもあります。これらは山間部であり、裏作に麦を作るのが困難であることが多く、米麦が不足しがちな地域でした。他方、棚田が多いので、その広いあぜで大豆をたくさん作っていた地域でもありました。その大豆を用いて納豆がさかんに作られていたのです。山仕事は激しく、米ではおなかがすくので、納豆餅を食べたというのですが、納豆餅を雑煮代わりに食べるとなると、納豆が暮らしの中で占めていた重要性がうかがわれるように思います。
しかし納豆餅も食べられることが少なくなってきました。食に関する好みの変化によるのかもしれません。左京区で生まれ育ち今も住んでいるわたしは歩くことが好きで、平地であれ山であれ特に左京区域を歩くことが多いのですが、歩いていて水車や炭焼き窯の跡などを見つけ、地域の人から思い出話を聞かせてもらう時、また納豆餅についての思い出を古老から聞かせてもらい、納豆餅を食べさせてもらう時、この50年ほどの暮らしの変化によってわたしたちが得たもの、失ったものは何だろうと考えることがあります。左京区は暮らし変化によってわたしたちが得たもの、失ったものについて考える材料が数多く残されているところだと思うのですが、そのようなものを見ることが、社寺、史跡、文化施設を訪ねるとともに、左京区各地を歩く時のわたしの大きな楽しみとなっています
著者プロフィール
大阪府立大学人間社会学部教授。
西洋哲学史・環境思想専門。左京や京都に関する著書多数。
岩倉在住。
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