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京都市北区

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リレー学区紹介-出雲路学区

ページ番号56212

2009年2月1日

出雲路:賀茂の流れとともに

加茂街道の写真

(市民しんぶん北区版「いきいき北区」 平成11年11月15日号より転載)
長年にわたり各種団体や社会福祉協議会のお世話をされている黒田實さんに話をお聞きしました。

賀茂街道に沿って
 出雲路学区は、かつての愛宕郡の出雲郷鞍馬口村と小山郷小山村のうち、賀茂川西岸に沿う地域で、長らく上賀茂神社領でありました。 明治22年、町村制施行により鞍馬口村となり、大正7年、京都市に編入、昭和4年には、前年の小学校新築に合わせて出雲路学区の名称が付けられました。 現在は、北山大橋から賀茂街道に沿って葵橋手前まで南北約2㎞、東西 200mの細長い地形に、約千百世帯の方が住んでおられます。小学校の通学区域としては、昭和20年代の若干の変更を経て、今宮通、紫明通、出雲路橋を境に、北から元町、紫明、上京区の室町及び京極の4つに分かれています。中学校は、紫明通以北が加茂川中学、以南が烏丸中学に通学となります。
(補記 紫明通以南の中学校の通学区域は,烏丸中と上京中に分かれています。)

思い出の「出雲路小学校」
 今はなき「出雲路校」の歴史は古く、明治17年、鞍馬口村俵野に下鴨小学校分校として開設されたのが始まりです。同22年、鞍馬口尋常小学校と改称後、大正12年、出雲路立本町に教室、講堂を新築、昭和3年には北側に移転、増築されました。この間、府師範学校の代用校となった時期もありましたが、大正7年の市編入時に出雲路尋常小学校と改称し、「出雲路校」が誕生、一時は400 人近い児童が学んだこともあります。 昭和18年、時代の流れとともに「出雲路校」は閉校し、その校舎は、当時市内に2か所あった青年学校の一つとなり、戦後は、2年間出雲路中学校として、また、堀川高校・芸大の音楽部としても利用されました。昭和31年、市交響楽団練習場となった後、平成元年、「出雲路校」を偲ばせる由緒ある建物は、現在の瀟洒な建物に生れ変わりました。建て替えに際しては、地元の方々が多大な協力をされるとともに、地域活動の拠点として会議などにも利用されています。

恵まれた環境の中で
 出雲路学区は、四季折々に彩りを変える比叡を仰ぎ、春には桜のトンネルとなる賀茂街道を、新緑が映えるころには葵祭の優雅な行列が進みます。夏の夜空を焦がす大文字の送り火を正面に見、晩秋から早春にかけてはユリカモメが飛び交うなど豊かな自然・文化に恵まれています。また、毎年3月には、京都シティハーフマラソンのランナーが駆け抜けています。 地下鉄の駅にも近く、市バスの便もよいことや商店街にも隣接し、恵まれた生活環境となっています。 歴史ある地蔵堂が集会所として利用されている町内もあり、また、学区出身者では、戦後初の衆議院議員となった冨田はつさんがおられます。

先進的な地域活動
 出雲路学区は、早くから、福祉の風土づくりには意欲的で、社会福祉協議会は北区で最も早く発足した学区の一つです。特に昭和60年ころからは活動も活発になり、会食会、独居老人ふれあい事業など積極的に取り組まれました。また、自主防災会も早くに結成されるなど、先進的な地域活動に取り組んでおられました。 しかしながら、4通学区に分かれている現状から、民生児童委員、消防団などを除き、地域活動は、各小学校単位に移行されています。また、新しい世代が増えるにつれて、区域の見直しを求める声も出ています。 黒田さんは、「今では出雲路学区の変遷を知る人も少くなった。通学区が2区にまたがるのは何かと不便もあり、今後も、学区民の皆さんがより生活しやすい状況になるよう要望していくとともに、地域活動の基本であるボランティアの精神を大切にしていきたい」と話しておられました。
(写真:賀茂街道)