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学区案内/待賢学区(たいけん) ※上京区120周年記念誌(平成12年3月31日発行)から抜粋

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2013年5月21日

待賢学区

二条城と御所に挟まれた平安宮のなごり─待賢─

 

■学区の概要と歴史

待賢学区 区域図

 待賢学区は,東は堀川通,西は日暮通,北は下長者町通,南は竹屋町通に囲まれた地域。ここは延暦13年(794)に平安京ができた頃,大内裏の東側に位置し,その門の一つ待賢門が現在の椹木町通大宮あたりにあったところから,「待賢」と称されるようになりました。当時は,検非違使庁などがある官庁の町でしたが,平安時代から鎌倉時代に移る頃,平治元年(1159)の平治の乱で戦場となったり,安貞元年(1227)の火災で少しずつ衰退していきました。室町時代の初め,明徳2年(1391)には明徳の乱が起こり,あたりは戦場となったりしました。
 豊臣秀吉が天下を統一すると,天正14年(1586)に待賢学区の北側の地に聚楽第を建て,その周囲には武将の家々が次々と建ち並ぶようになりました。やがて秀吉に代わり,徳川家康が天下をとり江戸幕府を開くと,慶長6年(1601)待賢小学校あたりに京都所司代を作り,慶長8年には上洛時の将軍の居城として二条城を造営。その周囲に町家が建てられ,町が形成されていきました。慶応3年(1867)将軍慶喜が二条城で大政奉還をして江戸幕府が倒れ,それに伴って京都所司代は廃止されました。
 明治3年(1870)その屋敷跡に京都府中学校が建てられましたが,ほどなく移転し,養蚕場となりました。明治39年(1906)その地に待賢小学校が大黒町から移ってきました。堀川三条から堀川中立売までチンチン電車が走り,明治45年には烏丸丸太町から千本丸太町まで市電が走るようになり,丸太町通は拡張され,校舎も南に移転することを余儀なくされました。大正中期になると西堀川通に「堀川京極」としての商店街を形成。しかし,昭和20年(1945)空襲に備えて堀川通の戦時建物強制疎開がおこなわれ「堀川京極」は撤去。そこに幅50メートルの堀川通が出現したのです。

 

■鈴なり満員のチンチン電車(昭和17年~)/橋本純一さん

 私は中学1年生から憧れていた定期券で電車通学を始めた。それは堀川通を走るチンチン電車で丸太町からの通学だった。電車の乗降口は前後にあり,皆その辺りにそれぞれ2列に並び到着を待つ。ところが通勤時間帯が重なり満員で鈴なりの状態で入ってくるので乗客が降りた後乗れるのはせいぜい4,5名くらいで,満員になるとチンチンと鳴らして出発してしまう。そこで後部乗降口が目の前にきた瞬間に,素早く電車の手すりをつかみ片足でステップに飛び乗るのである。(私は割り込みをせず乗車していたが)他にも同じように飛び乗る人も多く,窓枠にぶら下がる人も何人かいた。顔を見合わせてニコッとしたものである。体は小さかったが柔道部で鍛えており(腕立て伏せを毎日200回以上はしていた)大丈夫だった。車掌さんは,乗客が一杯で,身動きできず見えないため怒られることもなかった。
 このチンチン電車は前後の車輪の間隔が短いためか,走り出すと頭部を上下左右によく振り「よくも脱線しないな」と感心しながら,なにかあれば飛び降りる構えで乗っていたのを思い出す。
 この時期は戦時中で電力事情や車両乗務員不足等のため,通学用に乗車できるのは,学校の所在地から2キロメートル離れた所までしか乗車できないという規制があり,そこからは徒歩通学となる。もし遅くなったりして,学校の近くまで乗ったとしたら,降りた所に先生が見張り番をしていて,学校の正面玄関に外向きで,胸に30センチ角のダンボールを首に掛け,それには「私は電車に乗って来ました」と書いて立たされるのである。

中学校武道場(昭和18年)

中学校武道場(昭和18年)

堀川丸太町(昭和4年)

堀川丸太町(昭和4年)

 

■下立売の夜店/飛田幸男さん

 昭和の25年頃から,月のうち3の付く日,3日,13日,23日に,下立売通で夜店が開催されていました。下立売の黒門通から智恵光院通までの北側南側に沢山の夜店が並び,子供たちだけでなく大人も出て,結構な賑わいだったんです。花や盆栽を売っていたり,古本屋,お好み焼き屋,おもちゃ屋やら,いっぱいお店が並んでいました。特に興味深かったのは,飴細工の店で,ご主人のはさみ捌きが上手く,誠に楽しく作成していき,暫く感心して眺めていたものでした。また,金魚すくい鮒鯉等を釣ったりと色々と楽しむことができました。だいたい10円玉1個で用が足りたのです。今思えば庶民的な価格で皆が楽しむことができた時代だったのですね。先輩の方に聞くところによると,戦前は堀川通から夜店があったそうです。それが,いつの頃か,夏だけになり,そして歳月とともに,それもなくなってしまいました。子供たちが少なくなってきたのだから,仕方がないのかもしれませんね。でも,惜しい気がいたします。できれば,夜店を復活して欲しいものです。

待賢今昔

 

■堀川京極の賑わい/加納義信さん

 16世紀の頃より御所と聚楽第を控え,京都最大の魚鳥菜果市場として栄えた上の店や下立売筋の商いの街をもつ堀川通には,明治の初めには既に,糸・呉服・小間物・米・味噌・砂糖・醤油・雑穀や魚菜・日用品を商う多くの商家が軒を連ねていた。明治中期には,次第に,小売店舗や飲食店が多数を占めるようになり,上京では最初に商店街としての形をなしてきた。
 大正中期頃からは,今日のアーケードの前身に当たる鉄骨アーチのテントと,私費舗装を備え,自転車,車馬の通行禁止とされ,夜は照明で不夜城となった。中立売から丸太町の6カ町の間,両側250店の古い創業を誇る有名店や新しい時代のハイカラな店など,さまざまな種類の小売商店と2つの映画館,3つの銀行,2つの市場やカフェ,そして喫茶店,飲食店も数多く,昼夜の買い物に,夜の憩いに,堀川京極として市内有数の繁華街,歓楽街として栄えていた。
 戦前の堀川京極の商圏では,職住一体の軽工業,商業地区や北部の農家であり,昼間は家族使用人ぐるみで忙しく働き,ゆっくりとした買い物や歓楽は夜の事となり,人出のピークは夜の9時頃で,向かい側が人込みで見えない程の賑わいだった。当時は今と違い,自家製小売りも多く,ただ今の実演販売のようなもので,人だかりのできる店もあった。ラジオ,テレビのない時代は,家族連れやアベックでの,ウインドショッピングが夜や休日の憩いの場であった。もちろん,レコード店の前は,新しく出た流行歌の歌詞のポスターを見て,何時間もその歌手の歌声を聞く人もいるほどの人気だった。初期の日本映画界の人気を独占した名優尾上松之助の屋敷が丸太町上ルにあり,その出入りの人の集まりや葬儀の参列者の列の長さは,いつまでも人の語り種であった。
 現在の上京区の人々はもとより,以前は同じ上京区であり,堀川京極のすぐ東にあった区役所との繋がりもあって,遠く市内北部の人々にも親しまれたこの堀川京極も,第二次世界戦争の末期の昭和20年4月に,度重なる都市空爆に備え,かねての都市計画に基づき戦時建物強制疎開がわずか5日の期限で実施された。一夜にして堀川京極は消滅し,現在の50メートルの幹線道路と変貌したのである。今後は昔の姿を思い起こすことは恐らく無理で,忘れさられるのであろう。
 間もなく終戦を迎え,疎開にあった堀川京極の人達は,他の商店街が無傷で残っただけに,口惜しさは一入であった。これらの旧堀川商人の再興の熱意に,京都府も動かされ,数々の苦難を越え,新しい商店の並んだ街づくりとして,全国最初の店舗付住宅の商店街として,疎開跡の荒れ地に,京都市民の目を驚かせ,現在の堀川商店街が再建されたのである。帰ってきた商店人の復興の気構えは目覚ましく,いち早く法人組織とした団結により,荒れ地に昔の舗装された道路は3メートルしかなく,人,車ともほとんど通らず,たまに通る向かい側のチンチン電車の向こうに東山をみるといった環境の中で,開店の珍しさに賑わった。開店売り出しに続き,蛍を放った蛍狩りや車道の真ん中に櫓を立てての盆踊り,数カ所の街灯でテレビの設置,等の次々の企画イベントで,川の縁や車道まで人で一杯の賑わいを取り戻した。この復興ぶりは,警察からも叱られず,またなんの事故もなかった事は,今考えても不思議でならない。疎開に対する天の哀れみだったのか。
 その後戦後復興の姿は,狭い堀川通が往時では考えられないような京都の南北の幹線道路として,高層ビルの立ち並ぶ,交通の激しい現在となったのである。戦後のニューフェイスであったが,半世紀を経過して今や老朽化してきた堀川商店街通は昔はデパートの進出に悩まされ,昨今は,スーパー,コンビニとの競争に,また今後はインターネット等の商業流通の変遷に対して,どう変わってゆくのだろうか。

堀川京極商店街図

堀川京極商店街図
懐かしき堀川京極─今は昔の堀川京極の家並みを中立住民福祉協議会の高島茂夫氏が調査されたものを下敷きにして、木下英夫君が補足、訂正したものです。しかし完璧でないことをお断りしておきます。時点は昭和20年3月の疎開直前とのことです。

ラデオカルク温泉

ラデオカルク温泉

東堀川通から見た「堀川商店街」とチンチン電車(昭和30年頃)

東堀川通から見た「堀川商店街」と
チンチン電車(昭和30年頃)

 

■盛んだった組紐の生産/山形恒次さん

 組紐といえば,帯締め,羽織の紐。しかし,古来の書には飛鳥時代に大陸文化の影響で,工業的に組紐の道具や技術が仏教の伝来と共に伝えられ,各種の組紐が使用され,大きく進歩しました。平安時代には天皇以下の文武百官が着用以後,武家社会では大鎧武具や馬具寺に使われるようになり,年代を経て幕末へと小袖から着物を着ると共に,帯に対して帯締め等と誰もが衣装を着用するようになりました。待賢学区での組紐業者も多く,出水,聚楽,正親3学区にもその関係の業者の糸染,燃糸等の職人が多い。工芸組紐または製紐機で量産されるものと,飾り房紐など特に糸染の方は地下水の良し悪しで色の仕上がりに影響しました。地下水で思い出すのが,かつて当学区には酒の造り業者が多くありましたが,現在では姿を消しました。出水通といわれるように,良い水が出ますのでわざわざ近くに転宅される染の業者があります。昨今の不況の嵐で,各紐業界も大変な時代に入っております。幾多の年代を経て,代々受け継いできた伝統の灯を消さぬように。

くみひもを綾なす親子

くみひもを綾なす親子

待賢の教育

 

■創立128年の歴史─おおきにさいなら─/駒井義弘さん

 明治2年,上京区第十七番組小学校として,設立された待賢小学校は,地域の皆様の128年におよぶ温かいご支援とご尽力のなかで,素晴らしい伝統と歴史を育んでまいりました。明治,大正,昭和,平成と激動の時代の流れの中,いつも学区の中心であった待賢小学校は,高齢化,少子化の時代のうねりに呑みこまれ,児童数の減少に伴なう小規模対象校になりました。
 昭和63年,京都市教育委員会より小規模校問題について検討依頼があり,校区である待賢学区,滋野学区において学区を挙げて,話し合いを続けてまいりました。心の片隅に,いつも「伝統ある学校を,児童数の減少ということで,歴史の幕を閉じていいのだろうか」と思い悩みながら,50年,100年先を見つめ,9年間に亘る百何十回におよぶ会議において,実に大きな,勇気を持って,断腸の思いで,統合やむなしの結論を,委員会で出させていただきました。
 その後,同じ歴史のある,隣接の出水小学校との統合が,出水学区の皆様の温かいご理解のお陰で,スムーズに話し合いができましたことは,本当に感謝にたえません。当時,待賢住民福祉連合協議会会長をはじめ,検討委員会のメンバーとしてご苦労いただきました皆様方に,厚く御礼申し上げます。
 新しく二条城北小学校として出発した小学校が,子供たちにとって最高の勉学の場となり,待賢,出水の学区を超えて,地域の中心として,心の拠り所として,新しい歴史を刻んでいってくれることを願っています。
(待賢小学校会委員会)

待賢小学校 校門(昭和9年頃)

待賢小学校 校門(昭和9年頃)

 

■待賢小学校の校名と校章の由来

 明治2年(1869)10月6日, 上京第十七番組小学校として開校。明治5年5月,学制の発布により,上京第十九校と改められる。明治8年6月,本校は当時平安宮城の待賢門の古い跡地付近にあったので,この名前をとって「待賢小学校」と命名された。明治20年7月1日,小学校令の制定(学制改革)により,待賢尋常小学校と改められる。昭和16年(1941)4月1日,新制,国民学校令施行により,京都市待賢国民学校と改められる。昭和22年4月1日,新学制の実施により,京都市立待賢小学校と改められた。
 最初の頃は,分銅だけを用いて徽章としていたらしい。開校当時に本学区が消防を担当した時,その纏い印に「分銅」が用いられていたのを受けついで使われるようになった。その後明治31年(1898)に,教員制服・制帽が定められてから,本校の帽章として採用されてきた。
 明治41年(1908)校規の制定と同時に,日本の国花である桜に分銅,その中に「待賢」の文字を入れたのを徽章と定め,現在も校章とされている。

丸太町通から見た待賢小学校

丸太町通から見た待賢小学校

校章

校章

分銅「原器」

分銅「原器」

 

■日本聾唖教育発祥の地/堤孝三さん

 明治6年(1873)待賢校を管理する上京第十九区長に選ばれた熊谷伝兵衛は,隣家の聾姉弟の就学を願っていた。当時,第十九区校(現在の待賢校)の教員であった古河太四郎にその教育を託した。
 古河は熊谷の協力を得て,音唖教場を創始。
 4年後の明治10年には盲児を加え,盲唖院として教育の成果を上げた。古河太四郎は盲唖院の教育に対して強い熱意を示し,種々,教育を工夫し,教授法を創案した。例えば,盲児のための凸字や算盤,聾児には五十音手勢(指文字),発音法,盲聾ともに用いられた手算法や画掌法,特に力を注いだ体育や遊戯設備,等々,開発に工夫の限りを尽くしている。障害を受けた人に教育の機会を準備し,発達を保障しようとする願いが,110年以上も前に京都の地で花を開き,待賢校で実を結んだ。
 この後,古河太四郎の建議を受け「京都府立盲唖院」が設立された。「京都府立盲唖院」は明治11年5月24日,中京区御池通東洞院上ル船屋町で盲生17名,聾唖生31名によって出発した。

旧待賢校盲唖教場跡

旧待賢校盲唖教場跡
(下立売猪熊下ル西側)

 

■学童疎開と子どもたちの生活

 戦争の終わり頃,昭和20年(1945)日本本土に米軍が来襲するようになり,2月に東京大空襲に遭い,首都東京が焼け野原となった。そして,大阪,神戸など大都市への空襲が増えてきたので「京都大空襲」を予想して,市内の大規模な疎開が行われるようになった。現在の御池通・五条通・堀川通の50メートル幅の幹線道路などは,その当時の建物の強制疎開によってできたのである。
 建物疎開とは,空襲の被害を少なくし,軍事工場など重要な施設を守るため,まわりの建物・家を強制的にとりこわし,空地をつくったことをいうのである。
 「昭和20年(1945)3月18日,夕方10時頃に学校におられる方が建物疎開地域に指定されたことを連絡してきた。町内一同がにわかに集まり話を聞くと,1週間以内に立ち退けということであった。
 疎開先は,自分で見つけなければならないし,立ち退き保障の代金は安いもので,更紙にかかれた命令書をもらった。警防団が来て潰したが,川べりの家が,堀川に落とされたのを見た。黒帽子,黒い服,黒ゲートルの警察官が来て,軍国化の中だから,命令1つで『3寸角5尺以上の物は持ち出してはならん。真ちゅうなど銅板は全部はがして学校に運ぶよう』にいわれた。随分,哀れなものだった」。
(井上 太一郎氏談より)

強制疎開で壊された堀川通

強制疎開で壊された堀川通

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