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上京区の史蹟百選,区民誇りの木/大報恩寺,エノキ

ページ番号12874

2008年10月21日

Fエリア
大報恩寺
大報恩寺

 千本釈迦堂の名の方が一般的な大報恩寺は,瑞雲山と号し,真言宗智山派に属しています。京都の旧市街地で最古の建造物という国宝の本堂を有し,おかめ塚などの伝説もあります。承久3年(1221)に義空によって創されました。
 義空は羽州の人で母が薬師如来に祈り,日輪を呑む夢を見て懐妊したと伝え,やがて鎌倉に出て修業し,比叡山で澄憲に師事して天台密教を会得しました。猫間中納言光隆の従者であった岸高という人が,自分の家を義空に寄進しましたので仮堂に釈迦如来像と十大弟子像を安置したのが起こりです。ついで貞応2年(1223)に本堂を建てようとしますが,大黒柱に適する用材がなくて困っていたところ,摂津尼崎の材木商の夢に金色白眉の老僧が現れて巨材を求めているとの詑宣があり,朝になって材木を見ると大報恩寺の刻印が打たれていました。そこで大報恩寺の仮堂に詣ると夢の老僧の姿が十大弟子の迦葉(かしょう)尊者と同じなので,その材木を寄進しました。
 また,その大工の棟梁高次が柱の寸法を切り誤って困っていたところ,妻の於亀(おかめ)が枡組を用いることを教え,無事竣工させることができました。於亀は女が夫の仕事に口をはさんだことを恥じて自害しました。高次が冥福を祈って建てた宝篋印塔をおかめ塚といい,大工の信仰を得るようになります。上棟式のお多福の面はこれに因んだとされています。
 本堂の棟木には安貞元年(1227)上棟と記されており,中に安置されている重要文化財の行快作の木造釈迦如来坐像や快慶等の作になる木造十大弟子立像は,本堂とともに開創当時のまま伝えられています。
 本堂は桁行5間,梁間6間,一重,入母屋造の檜皮葺で,鎌倉時代の和様を代表する仏堂です。平安時代の仏堂と異なり,民衆が本堂内で釈迦念仏を唱える道場として外陣を広くとり,蔀戸(しとみど)や引違格子戸を用いるなど住宅風の趣を伝えています。
 境内の霊宝館には,木造六観音菩薩像など3件の仏像のほか,北野経王堂一切経5048帖,北野万部経会で使われた●太鼓(だだいこ)の縁(ふち)が重要文化財として収蔵し公開されています。
 北野経王堂は明徳3年(1392)に山名氏清を弔って建立したという宏大な堂宇で,応永19年(1412)に書写されたのがこの一切経で,慶長7年(1602)には豊臣秀頼によって経王堂が再建されます。しかし,のちに本堂の修理部材に用いられ,また,明治の廃仏毀釈によって廃絶したあと,その余材で建てられたのが観音堂です。
 大報恩寺は西陣の町衆とともにあった寺であったところから,度重なる大火から守り抜くことができたのでしょう。昔の上京の住民意識が今に受け継がれていることがよくわかります。

 

DATA
・五辻通六軒町西入 溝前町

 

■誇りの木
エノキ
・高さ 18.0m   
・枝張 20.0m
・幹周 3.93m
・にれ科/落葉高木

 

●は↓

だ

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