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京都市指定・登録文化財-無形民俗文化財(左京区)

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2020年4月6日

京都市指定・登録文化財-無形民俗文化財(左京区)

鞍馬竹伐り会(くらまたけきりえ)

 鞍馬竹伐り会は,鞍馬寺本堂で修せられる蓮華会の法会に付随して,6月20日に,本堂前にて行なわれる。

 大蛇に見立てた,根付きの細い竹(雌竹)と根のない太い竹(雄竹)の2種の竹4本を,鞍馬の住民である大惣(おおぞう)仲間の人々が,それぞれ近江座と丹波座に分かれて,三段に断ち伐る遅速を競い,豊凶を占うもので,山伏の験競べ的要素と年占的な要素を併せ持つ。

鞍馬竹伐り会

大文字送り火(だいもんじおくりび)

 五山送り火のひとつ。8月16日に如意ケ嶽にて行なわれる。由来は,空海に託する説をはじめ,足利義政の発意による説,江戸時代の近衛信尹(のぶただ)の筆画によるものと様々だが,現在のような形態となったのは,近世初頭のことである。当日は,山上の弘法大師堂で燈明がともされ,般若心経があげられた後,この燈明から親火がとられ,一斉に点火される。
大文字送り火

松ケ崎妙法送り火(まつがさきみょうほうおくりび)

 五山送り火のひとつ。8月16日に松ケ崎西山(万燈籠山)に「妙」,松ケ崎東山(大黒天山)に「法」の字が点火される。由来は,湧泉寺寺伝によると,同寺が徳治2年(1307)日像の教化によって天台宗から法華宗に改宗した際,日像が西山に「妙」の字を書いて点火したものであると伝え,「法」は湧泉寺(ゆうせんじ)の末寺大妙寺ニ祖日良が江戸時代初期に東山に書いたことが始まりと伝える。なお送り火の後,湧泉寺にて,題目踊りとさし踊りが踊られる。
松ケ崎妙法送り火

花脊松上げ(はなせまつあげ)

 全国的に分布する柱松行事のひとつ。檜製の約20メートルの丸太の先(トロギという)に,逆円錐形のモジ(カサともいう)と称する点火資材を取り付けたものを,谷あいを流れる上桂川の河原(トロギバと称する)に立てる。夜になると,保存会会員がトロギバに集まり,上げ松をトロギの先端にあるモジめがけて投げ上げ,点火させる。その後,惣堂で総愛宕講が行なわれ,深夜まで盆踊りが続く。
花脊松上げ

広河原松上げ(ひろがわらまつあげ)

 柱松行事のひとつ。内容・形態などは花脊松上げと同様。点火終了後,伊勢音頭を唄いながら観音堂に練り込み,そこでヤッサコサイ等の芸能が行われる。なお,お産や死の忌がかかる者や,他所の者は,トロギを立てるトロギバ内での作業等に参加できない点は,他の柱松行事と同様である。
広河原松上げ

北白川高盛御供(きたしらかわたかもりごく)

 10月7日早朝,北白川天満宮に神饌を奉納する行事。神饌は,カワラケの皿に,味噌をつなぎとした小芋,大根なます,きざみ鯣(するめ)をそれぞれ円錐形に高く盛ったもの,高く盛りつけられた白飯を注連縄で縛った盛相(もっそう),さらに白豆腐の上に神箸や飛魚の干物やシイラを載せたものである。こうした神饌を作るのは,袴姿の男性だが,当日は,黒木綿の着物に紅の三幅前垂を腰に巻いた白川女が,神饌を頭上運搬で北白川天満宮まで行列をする。神饌供献の古い形態を残す習俗である。
北白川高盛御供

時代祭風俗行列(じだいまつりふうぞくぎょうれつ)

 平安遷都1100年記念として明治28年に平安神宮が造営され,その記念祭の一環として,平安時代から明治時代までの文物風俗を模した風俗行列が,京都御所から平安神宮に至るコースで行なわれた。翌明治29年からは,遷都の日にあたる10月22日に固定し,以後規模を大きくしながらも,新しい都市祭礼ではあるが,全市民的な行事として定着し今日に至る。
時代祭風俗行列

鞍馬火祭(くらまひまつり)

 由岐神社の祭礼。もとは剣鉾や神輿を中心としたものであったが,松明の巨大化と共に,次第に火が祭礼の中心的な役割となったのは,江戸末から明治にかけてのことと考えられる。大惣仲間以下七仲間の祭礼組織を持ち,松明の製作過程,各家のしつらえや行列衣装などに特色がある。
鞍馬火祭

松ケ崎題目踊・さし踊(まつがさきだいもくおどり・さしおどり)

 松ケ崎の湧泉寺の境内で行なわれる盆踊り。題目踊は,徳治元年(1306),松ケ崎住民がこぞって法華の信者となったことに歓喜した湧泉寺住職実眼が歓喜のあまり踊躍したのに始まると伝える。男女が団扇を手に,太鼓のリズムに合わせて「妙法」「蓮華経」「七遍返し」「難陀(なんだ)」といった音頭を輪になって踊るもので,中世芸能の面影を伝える。題目踊りの後,近世になって流行った盆踊りである,さし踊りが踊られる。
松ケ崎題目踊・さし踊

鉄仙流白川踊(てっせんりゅうしらかわおどり)

 鉄仙流白川踊は,かつては8月16日に北白川天満宮で,また8月23日の地蔵盆には薬師堂で行なわれていたが,現在では8月15日に,北白川小学校校庭で行なわれる。鉄仙流は,道念の流れを引き,寛政年間(1789~1801)頃を最盛期とした盆踊り。紋付の羽織を着た音頭取りの音頭にあわせて,浴衣を着た老若男女が輪になって踊るもので,楽器類は使用しない。
鉄仙流白川踊

修学院大日踊・紅葉音頭(しゅうがくいんだいにちおどり・もみじおんど)

 8月27日の大日盆の夜,修学院離宮前にて行なわれる念仏踊り。踊り前に,松明をつけ,提灯の前に列座し,三方に盃を載せ,給仕から酒を受けて乾杯する。この後,踊り手が団扇を手にし,切子灯籠1基を竹で吊るした屋台の回りで踊る。
修学院大日踊・紅葉音頭

大原八朔踊(おおはらはっさくおどり)

 9月1日夜,大原の江文(えぶみ)神社にて,大原8ケ町のイチバンジョウ,ニバンジョウに率いられた,宮座に加入早々の15,6歳の青年によって踊られる。高張提灯を手に江文神社へ向かう途中,石段下の伊勢音頭にはじまり,江文神社に至ってションガイナが歌われる。続いて各町からの音頭取りが,四方に斎竹を立て,注連縄を張った屋台に上り,道念踊りが輪になって踊られる。
大原八朔踊

八瀬赦免地踊(やせしゃめんちおどり)

 10月10日,秋元神社の祭に行われる芸能。宝永4年(1707)に山門と八瀬村との間に山界相論が起こった際,時の老中秋元但馬守が八瀬村に有利な裁定を行なったことから,彼を祭神とする祠を建て祭を行なったと伝える。この踊りは,別名燈籠踊りともいわれ,動物などの図柄を透かし彫りにして作られたもので,現在4つの花宿から各2基出される。当日はこの切子燈籠を頭に載せた女装の男性らが行列を組み秋元神社に向かう。踊りと踊りの間に俄狂言をはさむ点や,切子燈籠に室町時代の風流踊りの面影を残す。
八瀬赦免地踊

久多宮の町松上げ(くたみやのまちまつあげ)

 柱松行事のひとつ。地元ではチャチャンコと称し,愛宕山への献灯行事。柱松の頂上部に付けられた逆円錐形の点火資材めがけて,鉦や太鼓の鳴る中で手松明を投げ上げる。

 久多宮の町松上げは,地蔵盆の行事として,京都市北部から若狭にかけて分布する,愛宕山との関係の深い柱松行事である。

久多宮の町松上げ

岩倉火祭(いわくらひまつり)

 石座神社には,旧岩倉6ケ町(上蔵(あぐら)町,下在地町,忠在地町,中在地町,西河原町,村松町)で構成される宮座(祭祀組織)があり,岩倉火祭はこの宮座行事の一環として行なわれる。祭の中心をなす2基の大松明はの製作は,中在地町と忠在地町の2町があたる。祭礼当日は,各町毎のトウヤ宅から,小松明,鉾,御供を持って石座神社に集まり,献饌,神事の後,境内の仮屋前に置かれた大松明が点火される。
岩倉火祭

市原ハモハ踊・鉄扇(いちはらはもはおどり・てっせん)

 静市市原の盆踊り。かつては近くの山で送り火が点火された後で行なわれていた。念仏踊りであるハモハ踊と,近世に流行した盆踊りである鉄扇とで構成される。ハモハ踊は,締太鼓と鉦のゆったりとしたリズムに合わせて踊るのに対して,鉄扇は口説き調の音頭で楽器は用いない。
市原ハモハ踊・鉄扇

一乗寺鉄扇(いちじょうじてっせん)

 8月31日夜,一乗寺八大神社境内において,「八朔踊」や「豊年踊」の名で踊られる盆踊り。中央に櫓を組み,音頭取りが2組に分かれ,各々の音頭に合わせて,男女が輪踊りする。楽器は用いず,「(何々)え」と,「え」を句尾とした口説き調の音頭である。以前は青年団が主催し,8月15日,16日,23日,27日にも他村からの踊り手も交え,一晩中踊る活況であったという。さらに,『日次紀事』に記される「一乗寺の念仏踊」も,地元では「ハミダ踊り」の名で大正期ままでは伝承されていた。

一乗寺鉄扇

広河原ヤッサコサイ(ひろがわらやっさこさい)

 広河原地区の盆踊り。現在は8月17日の観音講と24日の松上げの日に,観音堂にて行なわれる。踊り手の女性たちは,浴衣に三幅前垂をつけ下駄を履き,男性たちは手甲に半纏,タチカケといった山行の服装で踊る。踊りは楽器を必要とせず,堂の床の上で踏み鳴らす下駄のリズムに合わせて,即興的な替歌を織り交ぜながら,男女の掛け合いの形式で進行するという,古い形態をとどめたものである。
広河原ヤッサコサイ

一乗寺八大神社の剣鉾差し(いちじょうじはちだいじんじゃのけんほこさし)

 祭礼の神輿渡御の先導に鉾が出されるのは,京都独自の祭礼習俗。現在みられる鉾は,鉾棹に金属製の剣と飾,額そして鈴をつけた形状のもので,一般に剣鉾といわれ,室町期にはほぼ基本形がかたまったと考えられる。剣鉾は,鉾差しが腰につけた差袋に鉾を立て,鉾を前後に振って鈴を鳴らしながら歩く。また,鉾の調進が,氏子圏内の住民の奉仕という形をとることが特徴で,一乗寺には,「菊鉾」「柏鉾」「龍鉾」の3基が伝承されている。
一乗寺八大神社の剣鉾差し

上高野念仏供養踊(かみたかのねんぶつくようおどり)

 もともと集落内のカドなどで行なわれ,最後にサトンド(祟道神社御旅所)で踊っていたが,現在は宝幢寺境内などで行なわれる。位牌台を中心にして,宝幢寺の住職が回向を行い,口上役の合図と共に踊りが始まる。囃子は男性が勤め,太鼓1人,鉦4人が位牌台に向かって並ぶ。踊り手は女性が中心で,浴衣に三幅前垂,赤の襷,白足袋,赤緒草履という姿に団扇を持ち,念仏を唱えつつゆったりと踊る。
上高野念仏供養踊

木野愛宕神社の烏帽子着(きのあたごじんじゃのえぼしぎ)

 木野愛宕神社の宮座行事のひとつ。烏帽子着は男子の成人儀礼として,京郊村落においては中世末期には広く行なわれていた。愛宕神社の宮座は,旧村全戸加入の村座であり,各戸は,西座・東座の2座のどちらかに所属し,毎年それぞれの座で当番が決まり行事を執行してきた。

 祭は,午後7時半頃に始まる。奉幣・献饌,祝詞奏上の後,狂言師茂山千五郎家による「翁舞」の奉納がある。その後,盃事が行なわれる。饗応の酌人役にあたるのが,当年16歳となった長男であり,それをハカマアゲ(袴上げ)と呼び,裃姿の正装で勤める。
木野愛宕神社の烏帽子着

久多の山の神・お弓(くたのやまのかみ・おゆみ)

 久多志古淵神社の氏子で構成される宮座によって,毎年1月3日に同社に合祀されている山ノ神の祭りとして行われてきたものである。『岡田家文書』の正徳6年(1716)の覚書に山の神講の記載があり,少なくとも江戸時代中頃には存在していた行事であることが確認できる。行事次第は,当日朝,宮座の役職者が集まり,弓矢と鏑,そして宝剣と鯛を作る。山の神小祠に対して御幣と神饌を供え,祝詞を奏上する。この時神饌のひとつとして,米と糀,水で醸した一夜酒を笹の葉に盛ったものがある。この後,拝殿前の広場で,その年の恵方と的に向かって矢を射る。

久多の山の神・お弓

大原上野町おこない・お弓(おおはらうえのちょうおこない・おゆみ)

 上野町の村堂である観音堂(浄楽堂ともいう)にておこなわれるオコナイ行事で,若者年齢集団が執り行う。この日,早朝よりトンドを行い,昼頃には全員揃って観音堂に入り,「サイコロ転がし」を行う。これは,椀に盛られたサイコロ状の大根の角切りを少しずつ取り出して転がせるもので,もともとの修正会の名残と伝えられるものである。その後,トンドを行った田に,あらかじめ作りつけておいた的に向かって弓を引く。なお,同地区には「上野町えぼし帳」が残されており,元禄4年(1691)から安永3年(1774)に至る座への加入の実態が知れる。
大原上野町おこない・お弓

真如堂の十夜鉦(しんにょどうのじゅうやがね)

 真如堂の十夜鉦(しんにょどうじゅうやがね)とは,毎年11月5日より15日までの間,天台宗の鈴聲山(れいしょうさん)真正極楽寺の本堂で行われる十日十夜別時念仏会(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)(十夜法要)に伴う,いわゆる双盤念仏(そうばんねんぶつ)である。十夜法要は,15世紀に伊勢貞国が真如堂で行ったのが最初といわれ,双盤念仏は十夜法要が基盤となって生じた。今も期間中は,伊勢貞国像が脇壇前に祀られる。真如堂では8名が左右の鉦座に上がり,独特の節で唱える念仏にあわせて,一尺二寸の吊り鉦鼓(しょうこ)を打つ。伝承されている曲は17種類で,そのうち8曲は念仏が伴い,他の9曲は素鉦(すがね)と呼ばれ,打ち方の妙技が披露される。真如堂の十夜法要では,17世紀には礼堂で僧侶が鉦鼓を撥(ばち)で打ち,庶民は縁で合掌していたが(「都名所図巻」)。18世紀に入ると,各種の講が成立し始め,鉦講(かねこう)は天明4年(1784)の序文がある「六萬唱鉦講(ろくまんしょうかねこう)過去帳」より確認される。寛政元年(1789)の寺務日誌の10月15日条には,十夜法要の結願(けちがん)日に「六萬唱鉦講これを打つ」と記される。真如堂の十夜鉦は,十夜法要の発祥の真如堂において継承されてきた双盤念仏で,僧侶による念仏会(ねんぶつえ)から民俗的色彩の強い行事へと変容する歴史的過程が明らかであり,鉦講によって非常に多くの曲と洗練された演奏技術を現在に伝えており,貴重である。
真如堂の十夜鉦

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