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京都市指定・登録文化財-美術工芸(右京区)

ページ番号189568

2020年4月6日

京都市指定・登録文化財-美術工芸(右京区)

方丈障壁画 狩野山雪筆(ほうじょうしょうへきが かのうさんせつひつ)

 狩野山楽の弟子であり,後女婿となった狩野山雪の寛永8年(1631)頃の作。
方丈障壁画 狩野山雪筆

奥座敷障壁画 谷文晁・原在中・森徹山・東東洋・岸駒筆(おくざしきしょうへきが たにぶんちょう・はらざいちゅう・もりてつざん・あずまとうよう・がんくひつ)

 奥座敷は仁和寺の坊官の屋敷の一部を昭和21年頃に移建したもの。障壁画は,制作時期がやや異なるものの,文化文政期の大家5人が分担して制作。
奥座敷障壁画 谷文晁・原在中・森徹山・東東洋・岸駒筆

紙本墨画花鳥図 六曲屏風 狩野探幽筆(しほんぼくがかちょうず ろっきょくびょうぶ かのうたんゆうひつ )

 四季にわたる花鳥を墨画を主体に簡潔に表現した,探幽の比較的若い時期の作品。
紙本墨画花鳥図 6曲屏風 狩野探幽筆

紙本墨画淡彩深山大沢図 六曲屏風 円山応挙筆(しほんぼくがたんさいしんざんだいたくず ろっきょくびょうぶ まるやまおうきょひつ)

 円山応挙(1733~95)によって,雨季を含んだ秋の山間と鴨を配した水辺という対照的な景観を,鋭い観察によって的確に描き分けられた作。
紙本墨画淡彩深山大沢図 6曲屏風 円山応挙筆

紙本著色花鳥図 六曲屏風 岸駒筆(しほんちゃくしょくかちょうず ろっきょくびょうぶ がんくひつ)

 両隻に春秋の景を描く。筆者は岸派の祖・岸駒(1749~1838)で落款に「雅楽助」,印章に「可観」の号を使用していることから天明6年(1786)~文化5年(1808)の制作と判断される。
紙本著色花鳥図 6曲屏風 岸駒筆

絹本著色細川昭元夫人像(けんぽんちゃくしょくほそかわあきもとふじんぞう)

 霊光院殿とも称される細川昭元夫人お犬の方は,織田信長及びお市の方の妹にあたり,天正10年(1582)に30余歳で病没している。図上の妙心寺第44世月航宗津による賛から,像主没年にその子によって制作された追慕像とわかる。本図は当時,画壇の主流をなしていた狩野派画家による作例で,その描写の的確さや衣装の華麗さは,当代女性肖像画の中でも群を抜く出来栄えとなっている。
絹本著色細川昭元夫人像

絹本著色前田玄以夫人像(けんぽんちゃくしょくまえだげんいふじんぞう)

 織豊政権の要職を占めた前田玄以に嫁いだ夫人の生前の姿を描いたもの。慶長15年(1610)の年記をもつ蟠桃院開山一宙東黙の賛をもつ。大胆な衣装の文様に当代夫人の特色が見られる。
絹本著色前田玄以夫人像

絹本著色天球院像(けんぽんちゃくしょくてんきゅういんぞう)

 天球院(1568~1636)は姫路城主池田輝政の妹にあたり,生前の寛永8年(1631)に自らの菩提寺として,妙心寺山内に塔頭天球院を建立している。社殿のなかに像主を配して荘厳化する形式は,女性像においては寛永期にその盛行をみるが,本図はその代表的な作例。天球院が創建された時期に制作か。
絹本著色天球院像

紙本墨画草山水図2,紙本墨画豊干寒山拾得図2 座頭屏風 長谷川等伯筆(しほんぼくがそうさんすいず しほんぼくがぶかんかんざんじっとくず ざちょうびょうぶ はせがわとうはくひつ)

 本屏風は唐人物図と山水図とを表裏に描き分けたもの。各画面に朱文方形「等伯」印が認められること等から,桃山時代の巨匠長谷川等伯(1539~1610)の筆になることがわかる。諸人物の描写は丁寧かつ柔軟な筆致が用いられ,?墨による草山水図には濃淡の墨調や筆触に一層の明快さが見られ,60歳前後の作と考えられる。
紙本墨画草山水図2,紙本墨画豊干寒山拾得図2 座頭屏風 長谷川等伯筆

紙本墨画山水図 座頭屏風  狩野探幽筆(しほんぼくがさんすいず ざちょうびょうぶ かのうたんゆうひつ)

 本座頭屏風は表裏それぞれ2面ずつ計4面すべてに水墨山水図を配したもの。本来は2面の図様を連続させ,2図を以て構図を完結させるもので,この2図によって全体として四季にわたる山水を表現している。探幽は水墨画の和様化を図り,瀟洒な水墨画の確立を試みた画家で,本図はその減筆体作例の一つ。40歳代後半頃の制作か。
紙本墨画山水図 座頭屏風  狩野探幽筆

紙本墨画 潙山倒瓶図 狩野元信筆(しほんぼくがいさんとうへいず かのうもとのぶひつ)

 本図は,もと床壁貼付を掛幅に改装したものと考えられる。唐の百丈懐海がい山霊祐に地面上の瓶を示して「これを瓶と呼ぶべからず。では何と呼ぶか」と問うたのに対し,い山は無言でその瓶を蹴倒して悠然と去ったという故事を描いた禅機画。緊張感ある人物の表情が行体で,簡潔かつ的確に描かれており,無款ながら,狩野元信筆と判断される貴重な作品。制作時期は天文年間(1532~55)半ば頃と想定される。
紙本墨画 潙山倒瓶図 狩野元信筆

木造千手観音立像(もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう)

 藤原定家(1162~1241)の念持仏と伝える像。もの静かな面相と程よい肉身に,小づくりの脇手を配しており,天衣の遊離部や微細な脇手持物の一部までも残すほど保存状況も良好である。伝承にふさわしく12世紀後半の様風を伝えるもので,鎌倉時代初期における藤原風の美作として貴重。
木造千手観音立像

木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう)

 やや幅の広い丸顔に仰月形の小ぶりな目と,分厚く大ぶりな耳をそれぞれ配しており,やや撫で肩で,足膝部は低く前方へ大きく張り出している。肉身部はほどよい膨らみをもち,衣文はわずかに鎬立ったものを等間隔に整然と配する。平安時代後期の作例であり,仏師康尚の作風に近い。
木造薬師如来坐像

木造十一面観音立像(もくぞうじゅういちめんかんのんりゅうぞう)

 カヤ材を用いた一木造,彫眼の技法によって制作される。肉身,衣の全面に淡朱を施した着彩像で,赤栴檀像の模擬像として制作されたもの。異常なほど長い下半身と,膝前の衣文に尋常でない表現がうかがえる。平安時代前期の制作で,奈良時代に盛んとなった古密教系の赤色檀色像の古例。
木造十一面観音立像

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)

 四肢の分節の明快さ,肩,肘を十分に張った相貌からは慶派の作風を窺うことができるが,一方,等間隔に整えられた衣文は12世紀後半頃の円派の様風を伝えている。平安時代の旧様を基本に,鎌倉時代の新様を融合させて13世紀前半に制作されたと考えられる。現在,阿弥陀三尊像の中尊。
木造阿弥陀如来坐像

木造地蔵菩薩半跏像(もくぞうじぞうぼさつはんかぞう)

 本像は元は嵯峨福生寺地蔵堂の本尊で,同寺衰退後に薬師寺に移された。左手に宝珠,右手に錫杖を持ち,腹部に裳の上縁をのぞかせ岩上に座る点は,壬生寺蔵地蔵菩薩半跏像(焼失)の形を範としたものと考えられる。全体的に穏やかな彫法でまとめられ,13世紀前半の保守的な仏師の手になるものと推定される。昭和61年の修理で,背面内刳部より,建長8年(1256)の修理銘が発見されており,それ以前の製作であることが確認された。
木造地蔵菩薩半跏像

木造聖徳太子裸形立像(もくぞうしょうとくたいしらぎょうりゅうぞう)

 鎌倉時代以後,聖徳太子信仰の盛行に伴って,南無仏太子像も数多く造られたが,本像のような裸形像の聖徳太子像はあまり例を見ない。特に下半身の造形に優れ,足が短く,腹部・臀部・膝頭などの膨み,幼い感じを残す直立のポーズ等,小児の体型の特色をよく表す。制作は13世紀。
木造聖徳太子裸形立像

木造金剛力士立像(もくぞうこんごうりきしりゅうぞう)

 本像は近世の文献によると,もと車屋町通二条上る仁王門町にあったと伝えられている。左方を阿形,右方を吽形とする平安時代後期以来の定式に則る。本像は総体に誇張に走らない穏やかな平安時代後期の和様の表現が認められる。鎌倉時代に興隆した慶派による彫刻のような躍動感には欠けるものの,程よい量感の中に力をこめ,静かに染み出してくる怒りの表情には底光りのする威力が湛えられる。岐阜県円鏡寺蔵の木造金剛力士像に様式的に近似し,鎌倉時代前半期の制作と考えられる。
木造金剛力士立像

黒漆燈台(くろうるしとうだい)

 本燈台は,総体錆下地,黒漆塗ヒノキ製の高燈台で,大治5年(1130)制作の可能性が高い本尊木造阿弥陀如来坐像(重要文化財)の両脇に置かれて伝来したもの。本尊と同時期,もしくはそれに近い12世紀の間の制作と考えられる。この時期の高燈台は全国的にも3件しか確認されておらず,数少ない燈台の古例として貴重。
黒漆燈台

方丈障壁画 狩野山雪筆(ほうじょうしょうへきが かのうさんせつひつ)

 狩野山楽の弟子であり,後女婿となった狩野山雪の寛永8年(1631)頃の作。
方丈障壁画 狩野山雪筆

木造菩薩坐像(もくぞうぼさつざぞう)

 ヒノキ材を用い,漆箔,彫眼の技法により制作されている。現在,阿弥陀三尊像の脇侍として安置されているが,もとは供養菩薩12躯の一つとして,かつて存在した丈六阿弥陀如来坐像の飛天光背周縁部に取り付けられていたものと思われる。平安時代後期の光背の残欠として貴重な遺例。
木造菩薩坐像

木造伝嵯峨天皇坐像(もくぞうでんさがてんのうざぞう)

 嵯峨天皇(在位809~823)の勅願所であるという当寺の創建伝承とも関連して嵯峨天皇像として伝えられているが,本像の像主を嵯峨天皇とする確証は見出せない。しかし,強装束姿の肖像彫刻として巧みにまとめられた佳品で,南北朝時代(14世紀)の制作と考えられる。
木造伝嵯峨天皇坐像

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)

 中道寺に伝わる阿弥陀,薬師,十一面観音の3躯は作風より,当初から1具として製作されたと思われる。もとこの地の氏神八幡宮に伝えられ,明治の廃仏毀釈の際,同寺に移されたといわれている。榧の一木造で,漆箔や彩色をほどこさない素木造である。
木造阿弥陀如来坐像

木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう)

 中道寺の阿弥陀・薬師・十一面観音は,いずれも頭と胴を一木で作り,これに横材で作った膝を矧ぎ寄せる構造であるが,薬師のみは内刳りして背板を当てており,他は内刳りをほどこさない。衣文の彫りは簡略なものであるが,3躯とも体各部の均衡がよく,洗練された技巧を示している。
木造薬師如来坐像

木造十一面観音坐像(もくぞうじゅういちめんかんのんざぞう)

 本像を含む中道寺の3躯は,その写実的な作風から,おそらく鎌倉中期製作の像と思われる。光背は桧材で,蓮弁を筋彫して頭光とし,その外側に朱で火焔を描いている。台座は厚さ3cmの円盤状の素朴なものである。本地仏の例として重要と言える。
木造十一面観音坐像

梵鐘(ぼんしょう)

 鋳銅製,笠形からなだらかな曲線をもって広がり,中程より垂直に下がる。竜頭は,宝珠を中心に双頭が笠形をかむ。乳の間は丈低めで4段4列の乳を配す。この梵鐘の作者沙弥圓道の銘のある鰐口が,亀岡市の金輪寺にあり,それには永徳二年(1382)の年記がある。
梵鐘

懸仏(かけぼとけ )

 円形の銅板の中央に,阿弥陀如来,薬師如来(左),十一面観音(右)の3躯の仏像を貼付け,各仏は天蓋,光背等を具備する。下方には波紋を表した上に蓮華を挿した水瓶を添えている。裏面に「応永廿三年六月十九日」の年紀があり,八幡本地仏の遺例として貴重である。
懸仏

懸仏(かけぼとけ )

 形状その他は同社懸仏(応永廿三年銘)に準ずるが,中尊台座に蓮弁があり,表される仏像が阿弥陀如来,釈迦如来(左),薬師如来(右)である点が異なっている。銘文はないが室町時代初期の製作であり貴重な資料である。
懸仏

鰐口(わにぐち)

 小形の鉄製鰐口で,撞座は複弁の八葉蓮花であるが形のくずれが見られる。甲面を3区に分かち,外区に下記の銘文を陽鋳する。年記のわかる鉄鰐口として珍しい遺品であるが,錆等による形のくずれが著しく,また片面の下方に大きな割損があるのが惜しまれる。(銘文)八幡宮 大永五年乙酉三月十五日
鰐口

鰐口(わにぐち)

 甲面の張りの少ない比較的平板な鰐口。撞座(とうざ)は八葉蓮弁で8個の小子房を表す。甲面は三重圏線を用いて3区に分かち,外区に下記の銘文を陰刻する。作者,年代等の判明する鰐口として貴重な資料である。(銘文)丹州桑田群弓削庄一宮八幡宮御宝前鰐口也 享保四年乙亥卯月四日上下村敬白大工藤原宗次
鰐口

鰐口(わにぐち)

 やや小形の鰐口で,撞座は複葉の八葉蓮華で,八個。小房を表す。甲面を圏線によって4区に分かち,外区に銘文を陰刻する。甲前面に鍍金のあとが見られる。
鰐口

絹本著色釈迦十六善神像(けんぽんちゃくしょくしゃかじゅうろくぜんしんぞう)

 大般若経転続に際し,奉懸される釈迦十六善神の画像で,中央に釈迦の坐像を描き,両側に文殊普賢の二菩薩,常啼菩薩,法涌菩薩ならびに十六善神を8体ずつに分けて配する。更に最前方に玄奘三蔵と深沙大将をあらわしている。
絹本著色釈迦十六善神像

絹本著色釈迦十六善神像(もくぞうやくしにょらいざぞう)

 定朝様の像で藤原後期の作と思われる。体各部の均衡はとれているが,近年の修理で様相を一変した。浅く刻んだ飜波式衣文,あるいは膝の真中に衣下端を垂らすところなどは古様である。
木造薬師如来坐像

木造如来形坐像(阿弥陀如来)(もくぞうにょらいぎょうざぞう)

 一木造の本像は,寺伝では阿弥陀如来という。像高50cmほどの仏像ながら量感に富み,また内刳りをほどこさない構造は,平安時代も早い頃の作風を示す。小さな目鼻立ちや,浅い衣丈などは10世紀後半の製作を想定させるものである。
木造如来形坐像(阿弥陀如来)

木造如来形坐像(伝薬師如来)(もくぞうにょらいぎょうざぞう)

 桧材の一木造,彩色仕上げの像で,同寺木造如来形坐像(阿弥陀如来)と大きさ,構造とも同じである。白亳は残るが,肉髻珠は確認されない。その顔立ち,大きめの肉髻,彫出された螺髪,脚部の方丈表現,豊かな量感など,木造如来形坐像(阿弥陀如来)と作風が類似している。
木造如来形坐像(伝薬師如来)

木造如来形立像(もくぞうにょらいぎょうりゅうぞう)

 桧材,彫眼,彩色仕上げの像で両足先と両手首より先は後補である。両手首より先が後補であり当初の尊名は不明ながら,現在は阿弥陀の来迎印を結ぶ。同寺の地蔵菩薩立像の作風に極めて近似しており,同じ作者によって製作されたと思われる。
木造如来形立像

木造地蔵菩薩立像(もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう)

 桧材,彫眼,彩色仕上げの像である。彩色,両足先,台座などは後補で,また両手は欠失している。両貌の表情や胸の付近の袖衣の折り返しなどに顕著に見られるように同寺の如来形立像の作風に近似している。

木造地蔵菩薩立像

木造千手観音立像(もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう)

 仏師定朝の流れをくむ平安時代後期の都風の典型的な彫刻である。
木造千手観音立像

版本大般若経(はんぽんだいはんにゃきょう)

巻子本を改装した半面5行の折本で,室町時代の版本を主体とし,欠失分は江戸時代の版本で補っている。巻第600ほか一部の巻の奥書に「応永戌夏五吉日願主清信男女道栄妙勝等」とあり,この頃の摺本とみられる。また天保15年(1844)に,12箱を新調した旨の奥書が見られる。
版本大般若経

絹本著色釈迦十六善神像(けんぽんちゃくしょくしゃかじゅうろくぜんしんぞう)

 中央に釈迦如来,脇侍に常啼,法涌の二菩薩を描き,その周囲に十六善神,下方には玄奘三蔵,深沙大将を描く。描写は細緻でまとまりがよく,室町初期の佳作である。本図は,大般若経とともに文明13年(1481)に購入され,吉野宮に奉納されたことが 添付別紙により判明する。
絹本著色釈迦十六善神像

絹本著色不動明王像(けんぽんちゃくしょくふどうみょうおうぞう)

 右手に剣,左手に索を執り,岩座上に立つ不動明王を描く。「妙沢老人奉施」の落款より竜湫周沢(1302~88)の筆と知れる。竜湫周沢は夢窓疎石の弟子。嘉慶2年(1388)に没するまで,不動明王を描き続けた。本図は火焔光に朱,頭髪等には群青を塗るなど賦彩もみられ,この種の中で珍重される一作である。
絹本著色不動明王像

絹本著色十六善神像 (けんぽんちゃくしょくじゅうろくぜんしんぞう)

 中央に金色の釈迦三尊を描き,馬を連れる玄奘の図様など,仏画の系統的伝統を尊重しているといえる。表現に幾分の堅さが見られ,室町時代も半ば頃の作であろう。
絹本著色十六善神像

絹本著色釈迦十六善神像(けんぽんちゃくしょくしゃかじゅうろくぜんしんぞう)

 釈迦十六善神像を3幅に分けて描くものは異例である。その作風から,室町後期の作と思われる。なお新補の箱に「吉富本庄宇津郷朝日寺本尊箱常住物也/永禄五年卯月五日」の墨書があり,当初,八幡宮の神宮寺・朝日寺に伝来したものと考えられる。
絹本著色釈迦十六善神像

丹波国吉冨庄絵図(たんばのくによしとみしょうえず)

 本図は後白河法皇御領法華堂領吉富庄絵図で,裏面には承安4年(1174)10月20日の年記がある。作風は江戸初期頃のやまと絵風であり,中世から江戸初期まで数度に渡り模写を繰り返したものと推測される。
丹波国吉冨庄絵図

木造地蔵菩薩立像(もくぞうじぞうぼさつりゅうぞう)

 後世の紙貼彩色のため,彫りが鈍くみえるが,平安中期の一木造の佳作である。同寺には数多くの仏像が安置されているが,その中では製作年代も古く,作柄も優れている。
木造地蔵菩薩立像

木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)

 天稚神社境内の阿弥陀堂に伝わったが,明治初年の神仏分離に伴い,宝際に「定朝」風の作例で,製作は平安後期。小粒の螺髪,やや伏目がちの相好,肩から腹部にかけての衣のゆったりとした造形,膝の衣文の美しく整った表現など,その特色をよく示している。
木造阿弥陀如来坐像

木造釈迦如来立像(もくぞしゃかにょらいりゅうぞう)

 いわゆる清凉寺式釈迦像で渦巻型に頭部を巻く髪型や,身体の全体を覆う衣,衣文が同心円状であり,間に茶杓形の衣文をなどに特色がある。清凉寺式釈迦如来像は,鎌倉時代の南都仏教(特に律宗)復興の際,全国的に模刻が行われたが,本像は当地域唯一の模刻像である点で貴重である。
木造釈迦如来立像

木造明智光秀坐像(もくぞうあけちみつひでざぞう)

 周山観音寺山の真言宗所属の密厳寺にあったが,明治27年に慈眼寺に移されたものである。明智光秀の肖像彫刻として甚だ貴重である。
木造明智光秀坐像

小塩区有文書(おしおくゆうもんじょ)

 天正15年(1587年)の太閤検地から明治22年,市町村制が布かれるまでの小塩村のあゆみを記した865通の古文書。
小塩区有文書

鰐口(わにぐち)

 口唇,眼の出が小さく,両肩に両面耳を付す。表裏とも圏線で撞座区とも3区に分かち,外区には左右に刻銘がある。撞座は小型で特異な八曜文を鋳出す。銘文(右)丹州桑田郷上熊田村東晃寺鰐口也(左)文明八年 丙申 十一月十七日願主敬白 洛法 禅門
鰐口

大般若経(だいはんにゃきょう)

 大般若経には書写や修復の記録のほか,様々な識語があり,歴史資料として重要視されている。本件の識語には朝日山に遺構を残す朝日寺の僧侶が読経した旨も記される。文安4年(1447)に巻子から折本に改装された。保存状態も良好で,豊富な識語を持つ点で重要である。
大般若経

絹本著色青頭白衣観音像(けんぽんちゃくしょくせいずびゃくえかんのんぞう)

 3幅からなっていて,中幅は正座の白衣観音,左右は蓮弁の船に乗る観音を描いている。神仏習合の思想に従い,庶民信仰の象徴として神前に掲げられたと考えられる。
絹本著色青頭白衣観音像

木造千手観音立像(もくぞうせんじゅかんのんりゅうぞう)

 本像は崇禅寺あるいは先光寺伝来の像とされる。一木造で,肩から片側に21臂ずつ,計42臂を矧ぎつけ,その間に多数の腕をつける。千手観音は通常42臂だが,稀に千臂を有するものがあり,本像の技法はそれに共通する。バランスのとれた作風は平安後期の特徴を示し,厳しい面相や固い衣文は当地の製作を思わせる。
木造千手観音立像

吊燈籠(つりどうろう)

 六角形の銅製の吊燈篭で,笠より下から脚まで鍍金を施している。火袋の支柱に羅刹堂 願主了仙 天正十九年辛卯十一月吉日と刻されている。これによって,本灯篭は天正19年(1591)の作であることがわかる。
吊燈籠

客殿障壁画 狩野永岳筆(きゃくでんしょうへきが かのうえいがくひつ)

 隣華院は慶長4年(1599)の創建であるが,現在の客殿は文政7年(1824)に上梁されたもの。本件は室中及び仏間を除いた,上間一の間,二の間,下間一の間,二の間,南北鞘の間,中眠蔵(めんぞう),西眠蔵,杉戸の障壁画計113面である。制作年代は文政8年(1825),筆者は狩野永岳(1790~1867)である。永岳は京狩野家の9代目当主。本障壁画は永岳36歳と若い時期の希少な基準作である。また保存状態も良好で,江戸後期の京都における漢画派の大規模な障壁画の遺例としても貴重である。

客殿障壁画 狩野永岳筆

紙本墨画張旭揮毫図 長澤蘆雪筆(しほんぼくがちょうきょくきごうず ながさわろせつひつ)

 18世紀の京都で活躍した長澤蘆雪(1754~99)が描いた新出の襖絵である。蘆雪は円山応挙の弟子。画題は杜甫の「飲中八仙歌」から,唐代の書家・張旭を描いた「張旭揮毫図」である。 「飲中八仙図」はしばしば描かれるが,その単独像は珍しい。落款から蘆雪晩年の寛政(1789~1801)後期の頃の制作と考えられる。蘆雪の襖絵は本拠地の京都では知られておらず貴重。また,本図が伝来した右京区嵯峨天竜寺角倉町の公立学校共済組合嵐山保養所「花のいえ」は高瀬川等の開削で知られる豪商角倉了以の邸宅跡に所在し,本図は角倉家の建物(現存せず)とともに伝えられた可能性のある作品である。

紙本墨画張旭揮毫図

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