新指定・登録文化財 第33回京都市文化財

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2016年4月7日

新指定・登録文化財 第33回京都市文化財

 京都市では,京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。

 平成27年2月に京都市文化財保護審議会から答申を受け,新たに5件を指定し,1件を登録しました。(平成27年3月31日)

 これにより,京都市指定・登録文化財は全部で498件になりました。(平成27年4月1日現在)

 *〔  〕内は,文化財の所有者又は保持団体名です。

美術工芸品(彫刻)

木造薬師如来立像

木造薬師如来立像(もくぞうやくしにょらいりゅうぞう)1躯(指定)
〔京都市北区西賀茂神光院町 神光院〕

本像は,上賀茂神社の西方に所在する神光院所有の木造薬師如来像である。本像は,典型的な平安初期一木造の作風を示している。量感のある体躯は,奈良・元興寺薬師如来立像(国宝)や京都・金剛心院如来立像(重要文化財)などの平安時代前期の彫刻に近似し,正面大衣(だいえ)の下縁に立ち上がりをつけながら波打たせる処理は,唐招提寺伝薬師如来立像(重要文化財)や神護寺薬師如来立像(国宝)など,奈良時代後半から平安時代初期の彫像に相通ずる古様さがある。以上から,本像の制作は9世紀前半にさかのぼると考えられる。本像は,慶応3年(1867,慶応4年の誤りヵ),上賀茂神社の神宮寺から旧本尊の十一面観音立像と共に移されている。ただし,上賀茂神社神宮寺の創建は10世紀末頃と考えられており,9世紀前半の制作と推定される本像は,神宮寺創建当初からの安置仏とは考えにくい。そこで興味深いのは,当初の安置場所として上賀茂神社の東方に所在した岡本堂をあてる説である。岡本堂は『続日本後紀』によれば,賀茂社の神戸(かんべ)の百姓が賀茂大神のために建立したが,天長年間(824〜834)に破却され,天長10年,勅により再建が許された。本像の制作年代は岡本堂が再建された時期に合致し,その作行きの素朴さも,神戸の百姓によって建立された岡本堂に安置されたと見るにふさわしいものである。本像は上賀茂神社における神仏習合思想を背景に制作された,9世紀前半の一木造として貴重な遺品である。

美術工芸品(古文書)

実相院文書

実相院文書(じっそういんもんじょ)3巻4冊181通(指定)
〔京都市左京区岩倉上蔵町 実相院〕

本文書は,岩倉実相院に伝来する中世文書群である。実相院は,もと天台宗寺門派の門跡寺院で,応仁の乱を避けて当初の所在地から,支配下にあった岩倉の大雲寺に移転,近世に入り大雲寺を兼帯した。このため,本文書には,実相院に伝来した文書と,大雲寺伝来のものとが混在する。

 実相院伝来の文書としては,観応3年(1352)の「実相院増基(ぞうき)譲状」など,南北朝期の門跡の継承を知る上で貴重である。所領に関する文書は多数で,長禄3年(1459)の「実相院門跡領目録」では,中世の実相院の所領の多さが確認できる。これは足利将軍家の厚い庇護によるもので,応永19年(1412)の「足利義持御判(ごはん)御教書(みぎょうしょ)」など,それを裏付ける文書も多い。

 大雲寺伝来の文書の数は少ないが,応永6年(1399)の「北岩倉中殿敷地」を安堵した「足利義満御判御教書」が最も古く,応徳2年(1085)の「検非違使庁勘録状(けびいしちょうかんろくじょう)写」は大雲寺の境界を記す点で,写しながら貴重である。

 また,本文書総体で興味深いのは,実相院と大雲寺との関係を示す史料である。大雲寺が,実相院の下知に従わなかったことが,嘉吉3年(1443)の「三位賴尚等起請文(きしょうもん)」などから知れる。永正12年(1515)から同14年にかけて幕府が実相院に大雲寺の管領を認めた「室町幕府奉行人連署奉書」8通からは,戦国期を通じて進行した実相院による大雲寺支配強化の過程がよくわかる。

 本文書群は中世の実相院という門跡の継承関係・知行実態はもとより,門跡とその支配寺院との関係を知るうえでも重要であり,さらには戦国期の京都および洛北の動静を伝えても貴重なものといえよう。

美術工芸品(考古資料)

桃山茶陶

三条せと物や町界隈出土の「桃山茶陶」(下白山出土品)279点(指定)
〔京都市中京区上本能寺町 京都市〕

平成7年に中京区麩屋町通三条上る下白山町から多量の「桃山茶陶」が出土した。「桃山茶陶」は平成23年度に中之町出土品,平成25年度に弁慶石町出土品を京都市有形文化財に指定している。下白山町に隣接する中之町は,慶長~寛永年間に描かれた屏風図や絵図から「せと物や町」が当時存在したことがわかる。茶陶は,通りに面した町家の裏庭に掘られた複数の穴から出土した。完形に復元できるものが多く,商品としての茶陶を廃棄したものであり,当地にも瀬戸物屋が存在したことを示す。茶陶の種類は信楽・伊賀,備前産の焼締陶器が豊富で,他に高取産の施釉陶器,中国・朝鮮等からの輸入陶磁器等がある。中でも信楽・伊賀,備前産の水指,花入,建水といった袋物が多く,歪みを強調したものや,装飾を施すなど多様な造形を示し,伝世品に類例がない製品もある。制作年代は,高取産の製品が全て慶長19年(1614)開窯の内ヶ磯(うちがそ)窯産であることから,元和年間(1615~1624)に位置付けられる。

 慶長年間後半に属する弁慶石町出土品と比べると,焼締陶器が占める割合の高さは共通するものの器種に偏りが見られ,水指,建水,花入に特化する。器に対する作為や歪みの程度も大きい。

 美濃産の施釉陶器や,茶碗や向付が少ないことは,同時代に属する中之町出土品とは異なる。ただし,中之町出土品と本件には産地を越えて共通する意匠,技法が認められる。

 本件を弁慶石町並びに中之町出土品と考え合わせることで,「桃山茶陶」が短期間で大きな変化が生じたことや,全国に共通する「織部好み」という価値観が浮かび上がる。各出土品の内容の違いは,変化する流行,産地との繋がり,品揃えの特徴を現すものであり,「せと物や町」と記された町名にふさわしい景観を具体的に復元できる重要な資料となる。

美術工芸品(歴史資料)

朝鮮通信使関連資料

朝鮮通信使関連資料
附 絹本著色別宗祖縁頂相 1幅「正徳初元龍舎辛卯仲秋日」等の自賛がある
槎客通筒集 1冊 下張文書 13点
〔京都市上京区今出川烏丸上る相国寺門前町 慈照院〕

本資料は,相国寺の塔頭慈照院に伝来した朝鮮通信使の遺墨類である。江戸時代,朝鮮通信使は,慶長12年(1607)を第1回として,文化8年(1811)まで12回にわたって来聘した。朝鮮との折衝に当たり,幕府は京都五山の碩学僧から適任者を選び,対馬の以酊(いてい)庵へ派遣した。慈照院からは5名の僧が以酊庵に赴任しており,中でも別宗祖縁(べっしゅうそえん)(1658~1714)は,元禄13年(1700)5月から同15年6月まで以酊庵に赴任し,加えて正徳元年(1711)の通信使に接伴僧として江戸まで同行した。多数の朝鮮通信使の遺墨類が同寺に伝来するのはこのためである。 本資料の核となるのは,別宗が正徳元年の通信使から贈られた肉筆詩箋等71点を「韓客詞章(かんきゃくししょう)」と題して4巻の巻物にまとめたものである。正使趙泰億(チョテオク)などが別宗の人柄や詩文の才能を称賛した詩が大半で,富士山や淀の水車等,景観を詠んだ詩も見られる。使節が持参した朝鮮製と思われる料紙を使用しており,良好な保存状態と言える。また,別宗は天和2年(1682)の通信使来日時にも,京都・本圀寺で,通信使と詩を交しており,その肉筆詩箋も「風雲際会」と題した巻物2巻にまとめられている。このほか,現在二曲屏風3隻に貼り交ぜられた書画類48点は,最後の通信使となった文化8年(1811)の使節に関連するものが多い。朝鮮通信使の遺墨類は,通信使の往還路などで,文人墨客等が詩文の唱応や揮毫を求めたため,各地に伝存しているが,本資料ほど大量かつ良質な肉筆詩箋が伝来した例は稀であり,通信使と接伴僧の親密な交流がうかがえる点で重要な資料と位置付けられる。また,書画類についても,以酊庵輪番僧を輩出した寺院ならではのまとまりを見せており,貴重な資料と言える。

無形民俗文化財(風俗慣習等)

大原野神社の神相撲

大原野神社の神相撲(登録)
〔京都市西京区大原野南春日町 大原野神社内 大原野神社の神相撲保存会〕

大原野神社の神相撲(かみずもう)は,毎年9月第2日曜日の御田刈祭(みたかりさい)に伴う神事相撲である。

 祭りに伴う相撲は,神事に際して奉納される勝敗を競う相撲と,所作そのものに意味がある神事相撲に大別できる。京都市内の神事相撲として,大原野神社の神相撲のほか,上賀茂神社の「烏(からす)相撲」(昭和58年登録),「平岡八幡宮の三役相撲」(平成11年登録)が知られている。

 氏子のうち,北春日町から選ばれた東の力士と,南春日町から選ばれた西の力士が,御田刈祭で授与されたまわしを着用して土俵に上がり,お神酒で四方の柱を清めた後,2度の立会いが行なわれる。まず東の力士が西の力士を押し切り,次は西が東を押し切り,一勝一敗で終わる決まりである。両力士は,塩を包んだ紙を口に含み,清めの作法や立会いなど,所作のたびにそれを取り替える。

 享保年間には既に恒例であり,地域で継承されてきた民俗行事として貴重である。

記念物(名勝)

怡園

怡園(いえん)2,626.44㎡(指定)
〔京都市左京区南禅寺下河原町 会社所有〕

怡園は,もともと細川藤孝(幽斎)を始祖とする細川家の十六代細川護立(1883-1970)が造営した京都別邸であり,昭和御大典のあった昭和3年(1928)に着工し,同7年に庭と建物共に竣工したとみられる。

 庭は,主屋を中核として玄関庭,東庭,西庭,北庭,中庭といった5箇所に大別できる。東庭を主とした庭を手掛けた人物は7代目小川治兵衛(植治)である。建物は,玄関棟,茶室を伴う2階建主屋,洋室棟,土蔵,離れに大別され,それらは中庭を中心としてロの字状の渡り廊下で接続している。旧観を留める主屋等の建築年代,大工は不明である。

 東山近傍を背景に築山と流れ,園路そして植栽樹木を巧みに配する洗練された形態を良好に持続してきた怡園は,岡崎・南禅寺界隈の庭園群を代表するものの一つである。それを特徴付けるのは,近代を席巻した数寄者とは異なるかたちで文化芸術への貢献を果たした細川護立が築造した庭であること,そして大正末期以降の景気の後退により,結果として優れた庭を有する大規模な邸宅の新設が怡園をもって終焉したことであり,岡崎・南禅寺界隈の庭園群の歴史,植治の最晩年の作風を知るうえで重要である。

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