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新指定・登録文化財 第21回京都市文化財

ページ番号5513

2020年4月6日

 京都市では京都市文化財保護条例に基づき,文化財の指定・登録を毎年行っています。平成15年4月に新たに10件を指定・登録しました。

建造物

大原野神社(おおはらのじんじゃ) 7棟(指定)
第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔京都市西京区大原野南春日町〕
 大原野神社は長岡京遷都の際,藤原氏の氏神として奈良の春日神社の分霊を勧請したのがはじまりとされ,近世には後水尾天皇により再興されている。本殿は並立して南面する4棟の一間社春日造である。これらは同規模・同形式で朱塗りとし,各社殿間は板塀で連結されている。屋根は檜皮葺で,棟に置千木(おきちぎ)と堅魚木(かつおぎ)3本をのせる。擬宝珠に文政5年(1822)9月の銘があり,角柱の面取(めんとり)が小さいなどの様式からみても,この頃に再建されたか,かなり大規模な改修を受けたと考えられる。中門は簡素な形式の檜皮葺の薬医門(やくいもん)である。中門の両脇に建つ東廊と西廊は,いずれも切妻造,檜皮葺の建物で,正面を柱間5間として連子窓(れんじまど)をはめ,背面を柱間3間の吹放しとする。本殿および中門,東西廊は,いずれも江戸時代後期の建物で,春日社系社殿の形態をよく伝えるものとして価値が高い。

 

天穂日命神社神社本殿
(あめのほひのみことじんじゃほんでん) 1棟(登録)

第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔京都市伏見区石田森西町〕
 天穂日命神社は,現在は天穂日命を祭神としているが,江戸時代中期には天照太神と日吉山王を祭っており,石田神社,田中神社などと呼ばれていた。現在の本殿は,棟札と擬宝珠の銘から天明3年(1783)の造営とわかる。建物は檜皮葺で,覆屋の中にあって南面する。身舎(もや)は桁行2間,梁行2間で,京都市内にはほとんど例のない間口2間の二間社流造(にけんしゃながれづくり)である。細部に装飾的要素が見られるが,あまり派手なものではない。かなり早い時期から覆屋に入っていたようで,保存状態は良好である。

美術工芸品

紙本金地著色東山遊楽図
(しほんきんじちゃくしょくひがしやまゆうらくず)
6曲屏風 1双
(指定)
第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔財団法人高津文化会館所有 京都国立博物館に寄託〕
 やや小型の屏風一双に,清水寺から法観寺五重塔を経て,祇園松原,祇園社へと続く東山一帯が描かれた近世初期の社頭遊楽図。桜が咲き誇り貴賎群衆で賑う東山を事細かに描いたもので,筆者には狩野派の絵師が想定される。描かれた人物は多彩,かつ精緻に表現され,建物や樹木などの描写も的確である。保存状態も極めて良好で,東山遊楽図の佳品として貴重。

 

紙本金地著色男女遊楽図(しほんきんじちゃくしょくだんじょゆうらくず) 6曲屏風 1隻(指定)

第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔財団法人細見美術財団所有 京都国立博物館に寄託〕
 総金地の中屏風に,琴棋書画に見立てられた遊びに興ずる十二名の男女がリズミカルに配された,近世初期の室内遊楽図。人物のポーズや着物の文様・色,裾の形等に「彦根屏風」(国宝・彦根市所蔵)との共通項が多く,同時代の翻案作品と考えられる。さらに本図は後世の遊楽人物図に影響を与えている。保存状態の良好な近世初期の風俗画の佳品として貴重。    

 

木造夜叉形跪坐像(もくぞうやしゃぎょうきざぞう)1躯(指定)

第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔京都市南区久世殿城町 福田寺〕
 ヒノキ材の一木造の夜叉形像。福田寺境内の小堂内に安置され,龍神像と称されて氏子達の厚い信仰のもとに守り継がれてきた像である。臂釧(ひせん)や褌(ふんどし)以外は何も身につけない像高60cm程度の裸形像で,口を閉じ,腕を胸前で屈臂し,二本の足指や獣耳をもつことから,本像は本来は兜跋(とばつ)毘沙門天像の左右に配される毘藍婆(びらんば)あるいは尼藍婆(にらんば)像であった可能性が高い。平安時代前期にまで遡り得る夜叉形の古例として貴重な作例といえる。

 

木造文殊菩薩半跏像(もくぞうもんじゅぼさつはんかぞう)1躯
木造優でん王立像
(もくぞううでんおうりゅうぞう)1躯
木造仏陀婆利三蔵立像(もくぞうぶっだはりさんぞうりゅうぞう)1躯
木造最勝老人立像(もくぞうさいしょうろうじんりゅうぞう)1躯
(指定)

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〔京都市左京区黒谷町 金戒光明寺〕
 金戒光明寺三重塔(寛永11年・重要文化財)に安置されている文殊菩薩像他全4躯。獅子(後補)に騎乗する文殊菩薩を中心に,手綱をとる優でん王・仏陀波利三蔵・最勝老人の三眷属(けんぞく)で構成されているが,もとは現在欠失している善財童子を併せて五尊像であり,中国の五台山に影現するという五台山文殊を彫刻によって表した作例である。慶派の流れをくむ仏師による鎌倉時代末期の五台山文殊であり,また彩色の保存状況が良い点においても貴重である。

有形民俗文化財

稲荷祭山車「天神榊」懸装品 10点 (指定)
第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔京都市伏見区深草藪之内町 伏見稲荷大社〕
 もともと伏見稲荷大社の氏子域,下京区山川町所有の「天狗榊」山車に懸けられていた懸装品であるが,お迎え提灯の廃絶に伴い,明治24年8月に同町から伏見稲荷大社に献納され,現在に至ったものである。
 平安時代から著名な稲荷祭は,応仁・文明の乱前後に度々中断を余儀なくされ,その後徐々に復旧されていった。安永3年(1774)に古式に復すという理由で,祭礼行列が大幅に変更されるとともに,2年後の安永5年(1776)2月には,祭礼資金調達の母体を目的とした「神事講」が,氏子域を核にして結成される。
 「天狗榊」山車は,この安永期の復活の頃に創生された可能性が高い。『都名所図会拾遺』(天明6年(1786)刊)には,「稲荷御迎挑燈」として,お迎え提灯の様子が描かれる。同図が写実的なものかどうかは不明だが,お迎え提灯用山車の特徴を知る参考となる。すなわち,①山車は4輪であり,曳き子,音頭取りがいること。②胴懸(左右),前懸,後懸の4面に懸装品がかけられ,左右胴懸上部には水引幕がかけられること。また真木から見送幕が垂れること。③山車には,鉦,笛で囃す人物等が乗っていること。④真木上部に榊がつけられ,上から順に,それぞれの山車特有の飾り物,稲荷大明神の額と幣,横木,さらにこの横木に見送幕と飾提灯が2基取り付けられること。以上のような構成であることが知られる。
 現存する10点の懸装品の,山車を構成する部位については,前懸もしくは後懸が2点,見送幕2点,胴懸2点,水引幕4点である。祭礼用懸装品にふさわしく,婦女子,老人など全員を,吉兆を示すデザインで彩るという構成であり,作品自体の質も高く,江戸中後期の織技術の高さを示すものである。さらに,現在分かっている範囲では,現存する唯一の稲荷祭お迎え提灯山車の関係品であり,稲荷祭の民俗を明らかにする資料として極めて貴重である。

名勝

白河院庭園(指定)
第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔京都市左京区岡崎法勝寺町 日本私立学校振興・共済事業団〕
 本庭園は7代目小川治兵衛(植治)によって手がけられたものであり,呉服業を営んでいた下村忠兵衛の所有となった翌年の大正8年(1919)に竣工した。建物は,大正・明治初期に活躍した建築家・武田五一の設計によるものである。
 造営当初は,東山を背景とする庭園に面して,ともに二階建ての和館と洋館が南北に並立していた。昭和33年(1958)の新館建設時に,洋館と和館の一部とが取り壊されたが,庭園部分は,その際にもほとんど改変を受けなかった。
 庭園は南北に細長い園池を中心とし,園池の東半周を囲む築山上に群植されたアカマツやイロハモミジ越しに,東山を望む大らかな敷地構成をとる。園池の水は琵琶湖疏水を水源としている。園池の周辺には,アセビやドウダンツツジが群埴され,建物との間には明るい雰囲気の芝生広場が広がる。
 東山の眺望を活かしながら,植栽樹木の特性や,琵琶湖疏水の豊富な水流を巧みに用いるなど,植治による円熟の技が随所に現れている庭園として貴重なものである。

 

並河家庭園(指定)

第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔京都市東山区堀池町 財団法人並河靖之有線七宝記念財団〕
 並河家庭園は,七宝作家で明治29年に帝室技芸員となった並河靖之(1845-1927)が,住宅兼工場に付して造営したものである。7代目小川治兵衛(植治)が手がけたとされ,明治27年(1893)に竣工した。
 当屋敷の周辺は白川河畔の閑静な住宅地であり,明治期の門構えと建物を良好な状態で残しており,建物は,平成13年に国の登録有形文化財となった。
 本庭園は,表玄関の「通り庭」と敷地の北東角にある「坪庭」,そして園池を中心として座敷前に広がる「主庭」に大別できる。これらは一体のものとして,明治期の住宅における庭園の有り様を今に伝えている。
 庭園と主屋は, 来訪する外国人を想定して造られており,琵琶湖疏水を水源とする池の水は,そもそも七宝の研磨用という名目で引かれたなど,職住の密接な関わりを見ることができる。また,庭園内は色とりどりの石が配されており,さらに石燈篭や手水鉢,井筒など多くの石造品が景に彩りを与えている。
 植治が後の作風を築き上げるうえで重要な時期に造られたものであり,並河靖之の芸術観をも受け入れた密度の濃い庭園として,貴重なものである。

文化財環境保全地区

天穂日命神社文化財環境保全地区(指定)
第21回京都市指定・登録文化財の写真

〔京都市伏見区石田森西町〕
 伏見区石田地区は,古代には「いわた」と呼ばれ,近江と大和を結ぶ街道の惜別の地として有名であった。この地にあった「石田の杜」は和歌の名所として知られ,「万葉集」などにその名がみられる。この石田の杜の故地が,現在の天穂日命神社付近とみられる。当社は近世には石田神社,田中神社などと呼ばれていたが,明治10年(1877)に現在の社名に改称した。境内地は,東西70メートル,南北60メートルほどの範囲におよぶ。本殿は天明3年(1783)の造営で,市内に数少ない二間社流造の社殿であり,切妻造・桟瓦葺の覆屋に納まっている。本殿の脇に建つ摂社の春日神社,八幡神社,天満宮は小さな社殿で明治前期以前の建築とみられる。境内には十数基の石灯籠が立つが,多くは18世紀後半のものであり,この時期に境内が整備されたことがわかる。天穂日命神社境内は,和歌の名所として知られた「石田の杜」に比定されている。
 市街化が著しい地域にあって,本殿以下の建物が樹林の中に建ち,全体として良好な環境を保っている。

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京都市 文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課

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